- ■dual use (2002/12/25)
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「その気」になればよからぬことができる危険性のある施設を査察しているわけです。
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「その気」と言いますか、とにかく悪意と資金と技術・知識(を持った人)がそろえば、たいていの悪事は可能なんですよね。で、そういうものを抱えた人たちは、おそらく他人に対しても「あいつもそういうことをしてるに違いない」と疑惑の目で見ることになるんでしょう。
例えば、日本は原子力発電を推し進めていますし、世界でもほとんど行われていない高速増殖炉開発が行われています。そしてこれは放射性物質の中でも毒性の高いプルトニウムが取れます。それに独自技術でロケット打ち上げも行っています。そして、不景気とは言え世界的には国家としての研究開発予算はばかでかいわけで。
…ということは、「その気」になりさえすれば核兵器を搭載した大陸間弾道弾も作れちゃうはずなんですよ。でも、もちろん日本に大量破壊兵器査察チームが入ってくることはありません。
結局、そこは、「その気」になりそうな国ではないという信頼なのか、世界を敵にまわしてでもそんなことをする「度胸」がないと見切られてるのか、とにかく、そんなことしないと日本がみなされているから、なのですよね。
「その気」にさえなれば、高校レベルの知識でTNT火薬なら作れますし、大学の工学部レベルの知識があれば核爆弾も作れないことはありませんからねぇ。その手の知識を持たせないということは事実上不可能なので「その気」にさせない、という方策を考えないといけないというわけです。
- ■「敵を作るつもりなら永久に敵はなくならん」 (2002/12/18)
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ガ:「トリトンよ 敵を作るつもりなら永久に敵はなくならん」
ト:「ポセイドンとなかよくするくらいなら…… のたれ死んだほうがましだっ」
ト:「ぼくにポセイドンなんかと握手しろなんてよくいえたもんだ」
「そんなことトリトン族が皆殺しにあうまえにやつらにいってほしかった!」
ガ:「にくいやつほどゆるすことが必要なのだ」
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これまでにも何度か「今日の一言」のなかで、「赦す」ということについて触れていますが、このガノモスの言葉はその感覚をかなり端的にあらわしてくれています。
そしてそのたびに「許す」ではなく「赦す」と書いているんですが、どれくらいの人が気づいているかは不明。
『海のトリトン』の中では、ポセイドン族の中でもトリトンを憎むことができない者が現れたり、自分の感情を優先させて結果的にトリトンを助けることになって裏切り者と呼ばれる者が現れたり、共通の敵が現れて一時的ではあるけれどもトリトン族とポセイドン族が和解したり、結構、考えさせられる局面はいくつも出てくるのですが、それはまたのお楽しみということで。
- ■今日の訳語 (2002/12/11)
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映画の字幕ではないので、とりあえず訳出しておいて、説明の追加(言い訳?)を行えるので少々救われてはいますが。。。
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映画の字幕というのは、せりふで口が動いている時間や画面が切り替わるまでの時間内に1つの意味の塊を表現しないといけないので、なかなか大変だろうなぁと思います。
そもそも人間の脳の瞬間的な情報処理能力というか、一度に受け止められる情報量には限りがあって−それを「チャンク」と言ったりしますが−それに収めないとだめなのですよねぇ。ずっと字幕を見てるわけにもいかないし。
そういえば映画『ロード・オブ・ザ・リング』の字幕はめちゃくちゃだと騒ぐ人たちがいてて、それのせいかどうかわかりませんが、第2作では字幕担当者が変えられたそうですが。。。。。。
- ■"Apathy is Lethal" (2002/12/04)
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ダリューンがテーブル上の茶碗を横へ押しやった。
「ナルサスよ、無関心は悪の温床であって善の見方ではない、という立派なせりふがあるのだがな」
(田中芳樹:『アリスラーン戦記(1) 王都炎上』)
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実は、これは以前も使ったことがあるんですけどね。1999年に。
「無関心」に対応する英語は普通は"indifference"です。つまり、「違い(difference)」が「ない(in-)」と言うか、見ていて(見ていないので?)違いがわからないということなんですね。
"apathy"は、「情念(pathos)」が「ない(a-)」ということが原義なので、「無感動」のほうが直訳なのかも知れません。同苦(「同じ苦しみ」ではなく「苦しみを同じくする」という意味で)するということ逆の立場と言えるでしょう。
要するに、問題に関わろうとしない−そもそも知ろうともしない−のだから、そこに潜む問題はいつまでも解決しないままということなのです。
- ■「私たち」とは誰までを指すか? (2002/11/27)
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これを遠い世界のことだと思わずに、自身に引き当てて考えてみればわかりやすいかも知れません。
あなたにとって「私たち」とは誰までを指しますか?
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ちょっと考えてみると、アジアっていうのもどこまでを指すか微妙ですよね。サッカーのワールドカップのアジア予選で日本代表がカザフスタンあたりと対戦して、「そういえばカザフスタンもアジアなんだなぁ」などと感慨にふけったりしたけどね。私は。
逆に、「日本はアジアか?」という問いも成立して、「アジアの周辺文明」であって「アジア」ではないという立論も可能なんですよ。(例えば梅棹忠夫『文明の生態史観』)
んー。つまり「私たちアジア人」っていう言葉を口にした時に、何の違和感もないのかと考えてみればいいかも。人によっては、ある日突然ガミラス星からやってきたデスラー総統に、「地球の諸君、我々は同じ宇宙人ではないか」と言われるのと同等の違和感を抱くのかも知れないし、向こう三軒両隣の人と同じ感覚の人もいるかも知れないし。
「私たち地球人」とかあたりになると違和感度はかなり上昇するでしょうね。「『人類』なんて言葉は抽象名詞だ」と、かのゲーテも言ってますしね。
古代ギリシャの都市国家の住民にしてみれば、都市市民が「私たち」でそれ以外は「バルバロイ(=わけのわからない言葉を話す者)」だった。ある特定の宗教集団から見れば、同じ対象を信じる人たちは「私たち」で、それ以外は「異教徒」または「不信心者」。仏教用語の「衆生」は概念として「世界のあらゆる生類、生きとし生けるもの」という意味ですが、その言葉を使う人たちが、確実にそれを認識し、行動に反映できているかは、甚だ疑問ではあります。
結局、守ったり救われたりする対象は「私たち」でしかないという現実。その対象をどこまで拡張できるかというのはとってもつらくて長い作業だと思います。けれども、それを続けない限り、世界はどんどん分断されていくことになります。
- ■「責任をとる」ということ (2002/11/20)
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“自由と責任は人間の精神性、つまりその本質をなすものです。しかし今日の人間は精神的に疲れており、そしてこの精神的倦怠こそは現代のニヒリズムのまさに本質なのです。”
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『時代精神の病理学』という本は第2次世界直後のウィーンで当時の社会状況と心理療法の関係を論じたラジオ放送をまとめたものです。フランクルといえばナチス強制収容所での経験を元にして書かれた『夜と霧』が有名ですが、彼の主張を圧縮して表現すれば、「人間は意味を求めて生きている。それが見出せるうちは人間は生きていこうとするし、生きていける。」ということだと私は理解しています。この『時代精神の病理学』の中でも、ニーチェの言葉として(出典が記されていないのが残念ですが)頻繁に「生きる理由があればほとんどどんな事態にも耐えられる」と繰り返しています。そして「人間はこう
した生の意味を満たす責任がある」とも言います。
ところが「運命には逆らえない」と考えてしまったり(「宿命論的生活態度」と表現)、「どうせ明日にはどうなるかわからない」と投げやりな態度になったり(「仮の生き方」と表現)、集団の中に埋没して個人であることを放棄したり(「集合主義的考え方」と表現)、逆にある特定の思考や人に入れあげたり(「狂信」と表現)してしまっており、これは「責任に対するおじけと自由からの逃走に帰着する」としています。
今の日本にただよう閉塞感の奥底には、責任を負うべき人が責任を負わない
ことよるニヒリズムが蔓延していると感じています。
- ■Land for peace (2002/11/13)
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その点をアナン事務総長も評価したのではないでしょうか。
もちろん、議論の余地はあるのですが。。
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「議論の余地はある」と書いたのは、 Land for peace という方針に対する疑念・反論というのを目にしているからです。
まず最初に、この方針が成立するためには領土を確保している方が領土よりも平和を欲してることが必要ということです。つまり、いつでも成立するとは限らないということ。
サダト大統領がイスラエルと和平を結び、占領されたシナイ半島を返還するかわりに、イスラエルの建国を了承するというのは、イスラエルとしてはエジプトの怨嗟を抱えたままシナイ半島を確保しておくよりは、自国の周辺で自国を承認していくれる国が1つでも存在してくれるほうがよほど自国の平和に役立つと判断したのでしょう。(だからこそサダト暗殺後もイスラエルはきちんと履行して返還するわけです。)
一方、サダト大統領にしても、圧倒的惨敗を喫した後で実力で取り返すことが困難と思われる領土が、交渉で返還されるならよいと判断したのでしょう。
また、別の批判としては、1938年にチェンバレン英国首相がヒトラーを訪問して、チェコスロバキアのドイツ人居住地域の安全確保のみが目的であると、ドイツ軍のズデーテンンラント進駐を認める宥和政策を進め、ヨーロッパの平和を確保しようとしたのですが、ヒトラーはその協定を反故にしてドイツに編入していしまいます。
「領土」は物理的に存在し、その領有の移転は確実に履行できます。しかし平和はたとえ当事者同士に悪意がなくとも必ず履行できるとは限りません。一方が最初から相手を出し抜いて平和と領土を交換するつもりだったのであればそちらの思う壺というわけです。
結局、当事者同士の信頼関係の醸成−約束したことを必ず実行すると双方が信頼しえる関係になること−が Land for peace の基本となります。対立している時点でそのような関係に発展するためには、少なくともどちらか一方が「相手を信用すればこちらも信用してくれる」と信じるところから始まるように思います。
信頼醸成装置(CBM;confidence-building mechanism)の確保。おそらくそれが最初に取り組むべきものです。
- ■dependency syndrome (2002/11/06)
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自分がいなくなっても生活していけるしくみを準備しない限り、その人はずっと誰かに依存し続けることになります。援助する側は、される側をどこかで突き放しその場を去ることで「救い」は完成するのです。
支援を続けることで自分に依存させ続けるのは、「愛と言う名の支配」に他なりません。
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国際支援だけじゃなくってね。いろんな場面で考えられますね。
先生と生徒。親と子。師匠と弟子。すべて後者がいずれ前者のいない場所で世の中の現実と格闘していかなきゃならなくなる。そのためには前者はどこかでいなくなるか、突き放すしかない。
- ■印鑑 (2002/11/04)
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私の姓は「山本」で、ご覧のとおり画数の少ない、線対称と言える文字なので、印
鑑にしても、そこに彫られた文字は「山本」とそのまま読めてしまいます。
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で、どういうことかと言うと、まあ、とにかく見てくださいませ。
ね?
左の文字を左右ひっくり返してもほとんど変わらないでしょ?
画数も思いっきり少ないし。
というわけで、はんこ屋さんは喜びそうな名前だねぇ。
あ、それから、どうして月曜日なのに訳したかというとね。
申し訳ないけど、最近、私と阿部さん以外の配信って滞りがちだったでしょ。それで、時間がとれるまで暫定的にピンチヒッターしてるわけで。
- ■Make love, not war (2002/10/30)
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“暴力を使うってことは、政府のやり方、体制のルールに乗ったも同然なんだ。
一度そうなれば、体制側は暴徒に対してどう対処すればいいのかを知っているからね。でも非暴力主義を−そうだな、ユーモアに対しては、彼らはどう反応すればいいのかわからないんだよ。”
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しかし、きわどいタイトルだなぁ、今回のタイトル。
よい子の皆さんが読んでて、「これどういう意味?」って聞いたらどう応えようかねぇ。
ま、それはともかく。
ジョン達のは最初にアムステルダムでベッドインをした後、合衆国に入ろうとするんですが、以前イギリスでマリファナ所持の前科があったことを理由に入国を拒否されちゃったりするわけです。そこで彼らはハバナに向かい、ラジオでこんなことを言いました。
ニクソン大統領に会って、どんぐりを渡したいんだよ。
もちろんどんぐりなんてただの種なんだけど、平和の象徴としてね。
で、その後にカナダのモントリオールに行って再びベッドインで、「今日の一言」で引用した言葉を口にしたわけです。ま、いろいろ意見はあるとは思いますが、なかなか非暴力主義思想の核心をついていると思いますよ、私は。
- ■「自然」とは (2002/10/23)
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いくら人間が小賢しく「地球にやさしい」などと言っていても、地球はそんなことお構いなし、なのでしょう。
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「自然」というのは、「人間の手の触れない」という意味なのではないでしょうかねぇ。そしたら人間の生活できるとこには、住みやすいように改造された「自然」しかなくってね。おそらく逆なんですよ。本当に自然を大切にしたいなら、そこへ人間は踏みこんじゃいけない。聖域(サンクチュアリ)として残すべきなんです。
たま〜に「自然が大好き!」なんてこと言う人を見ると、「だったら都会で住むなよ」なんてひねくれたことを言ってしまうのでありました。
- ■最後の地球環境破壊手段 (2002/10/16)
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というのは、温室効果ガスというのは、温室効果(地球を取り巻いて熱を逃がさずに蓄積して気温を上昇させる)を引き起こす気体であって、これを減らしても、地球温暖化問題が解消されるわけではないからです。温室効果が小さくなっても、その効果を打ち消すだけの熱を出してしまえば無意味になるんですから。
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なんて言うんですかねぇ。
動物愛護を訴える人が毛皮のコート着てたり、肉をばりばり食べてたら何だかなぁって思うでしょ?
「地球にやさしく」なんて言って、二酸化炭素をよく吸収し、酸素を多く吐き出すケナフっていう植物を植えたりしてる人が、そのケナフを刈りとって繊維を利用して紙を作るんだって、燃やしたり煮沸したりしてるのって、すっごくバカなことしてるって思うでしょ? (だってそのまま腐らせて発生する量より大量の二酸化炭素を撒き散らすんだから)
試験勉強の邪魔だからと、騒音が入ってこないように遮音効果の高い壁だの窓だのを整備することにばかり注力して肝心の試験勉強をしてないっていうのと同じことなんですよね、せっせとGHGsの削減だけに取り組むってのは。排熱を抑えなきゃ。
特に都市部だとヒートアイランド現象って言って、特に夏場にビル内を冷房するために熱を屋外に出すことで、その地域の気温が上昇し、そのためにビル内を冷房しなきゃいけなくなったりとかで、ひょっとしたら一斉に冷房を消して窓を開けたほうが涼しくなるんじゃないかという話もあるくらい。
本当の目標をきちんとみてなきゃダメでしょー! と思うんですがねぇ。
- ■必殺仕事人と桃太郎侍とではどちらがより『悪』か (2002/10/09)
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「悪いやつにはどんなにひどい目にあわせたっていいんだ!」というのは心情的にはわからないことはないですが、それを実行してしまっては自分もその「悪いやつ」と同類になってしまいます。
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この日の「今日の一言」はちょっと説明不足な点がありますねぇ。
読む人が読めば、私が「タリバンは悪だ」という前提で言っているように解釈されそうなので。
私が言いたいのはね、自分が常に「善」の側にいるという自覚−これは「自分の敵は『悪』」という認識の裏返しですが−で一方的に断罪することの危険性なのです。
そして、仮に相手が自分の非を認めたとしても、報復を是認してはいけないということです。もしそれを認めるなら、国内なら刑法を廃止して仇討ちを復活させよということになり、国外に対しては戦争を含む実力行使(少なくともその手の圧力を背景にした「砲艦外交」)で決着せよと主張することにつながります。
それともう一つ。仮に「悪いやつにはどんなにひどい目にあわせたっていい」と認めたのであれば、自分が他人から「悪いやつ」と認定されたら、ひどい目にあわせられてもそれを甘受することを認めなければなりません。しかも救済の余地はないのです。それって不毛な世界になると思いますよ。
- ■「みんなに少しずつ」か? (2002/10/02)
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資源が限られている中で多くの人を助けようとした場合、1人あたりの量をごく少量にしてでも多くの人に分配することを選ぶのか、それとも1人あたりの量をそこそこ確保することで支援対象を拡大しないことを選ぶのか。
冷静に(冷酷に、かも知れませんが)判断すれば後者を選択することになるでしょう。
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なぜ「冷静に判断すれば後者を選択することになる」のか、すぐにはわかりにくいかも知れません。
たとえば1人の人間が1日生きていくのに必要な食糧の量が1単位だったとします。今、手元に100単位だけ食糧があったとします。そして目の前に10人の人がいたとします。ただし彼/彼女らにはここで手渡される以外に食糧を得る方法がないとします。この場合は1人に10単位ずつ渡して10日間分だけは安心して食べてもらって、その10日のうちに食糧を新たに手配すれば、その10人は飢えずに済みます。
けれども10日後に次の食糧が届く前に、新たに10人増えたとしましょう。もしそこで同じように100単位しか食糧が届かなかったら。1人ずつに半日分しかもたない食糧を持たせるのか、それとも新たな10人には何も渡さないのか。
ここで「貧しくともみんながガマンすればよい」と言えるのは、それを受けとらなくても生きていけるだけの余裕がある立場にいる者の発想なのではないか、ということです。
もう少し極端に考えればよいでしょう。食糧が100単位しかないのに全部で1000人来てしまったら。全員に0.1単位だけ渡すべきでしょうか?
1人10単位ずつだと10人が10日生きられるところを、1000人に0.1単位ずつでは、全員が1日も経たずに死ぬことだってありえます。ならば、生き残る人間の数が少しでも多いほうを選択するというのが「冷静な」判断です。けれども、その発想は、ある程度の人数が死んでしまうことを前提にする発想でもあります。
さて、どちらかがより残酷でしょうか?
- ■アインシュタインの言葉 (2002/09/25)
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私が今日読んだ本にあった、アインシュタインの言葉です。
「暴力が障害物を一掃してしまうことはある。
しかし、暴力そのものが創造的であると証明されたことは一度もない。」
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最初はちょっと文章を書きかけたんですが、へんな注釈はいらないだろうと考えて、ばっさり消しました。
ちなみに元ネタは『アインシュタイン150の言葉』(ディスカバー・トゥエンティワン発行)です。原書は“Bite-Size Einstein”(Jerry Mayer & John P. Holms; )だそうです。
- ■それでも「赦す」と言おう (2002/09/18)
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「きれいごとを言っている」「遺族の気持ちになってみろ」と言われる方もおられるでしょう。けれども犠牲者の仇討ちをしても、彼ら/彼女らが帰ってくるわけでもありません。哀しいけれども起こってしまった事実を受け止め、この状態からいかに価値的な状況へもっていけるかが問われているのではないでしょうか。
「許そう、しかし忘れてはならない」という精神的な高みに立てるかどうか。今、日本人の器量が試される時ではないかと思います。
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SUNの読者のプロフィールってよくわかってないので、実は「今日の一言」って、全体として、よく読まれているのか、無視されているのか、嘲笑されているのかよくわからないんですね。
まあ、たまにサーチエンジンとかで「SUN」+「国連」あたりで検索してみて、SUNの記事を参照している人とかをチェックしたりしているんですが、それで引っかかるページは情報源としてリンク先に登録してくれてるところが多くて、具体的にコメントしてくれているページは辛口のが多い(と言っても片手で足りるけど)んですよ。んなもんでね、今回の「一言」はひょっとしたら反応−どちらかと言えば否定的な−が来るかなと思ったけど、この文章を執筆している時点では来てません。
朝鮮側が拉致を認めたことで、その家族の方々が激昂され、「許せない」と言われるのは十分にわかるのですが、ニュースを聞いただけの他の国民が被害者への同情を通り越して、ややナショナリストっぽく政府を批判してるのは、すこしあれれ?と思ってます。
もし小泉首相が拉致の問題で怒って交渉の席を立ってしまっていたら、今生きておられる日本人の方まで帰国できる可能性を低めてしまうであろうし、それこそ、合衆国が「ならず者国家」にしているのと同じことをすることになります。ここは冷静に対処したいものです。
- ■interfaith(2002/09/11)
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テロリスト(となってしまうその予備勢力)側が、テロの対象としたいその相手を、精神的な高みに立って「赦す」ことができるようになってのみ、テロは根絶しうるのではないかと思うのです。
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上記の文章は少しわかりにくいかも知れません。
テロに関して「赦す」と言った時、それはテロの犠牲者側がテロリストを赦すことを指すと思われがちでしょうけれども、そもそもテロに走る側の意識としては、そういうテロの対象になる者たちが自分たちを圧迫している「被害者」だという意識、「ヤツらを排除しないとこちらが危ない」という危機意識に立っているわけで、その被害者だという認識を乗り越え、テロリスト予備軍がそのテロの対象を赦せば、テロは起こらないんです。
それには、複数の価値観の存立と共存を認める−それこそinterfaithでしょうけれども−、ある種の精神的な高みが必要だと思うのです。
- ■反●●(2002/09/04)
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「反●●」というスローガンが効力を発揮する(求心力を持つ)のは、その「●●」が全否定の対象になるくらい強固で、邪悪で(と決め付けることができて)、そう簡単に負かせられないほどの強敵でなければならないでしょう。
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小学校のときに生徒会(だったと思う)、運動会のやり方(って変ですけど)についての取り決めを行っていて、生徒が応援する時にトラックの方まで出てきてしまって競技の邪魔になりかねないことがあったので、「立って応援しない」という意見が出されました。普段は生徒会担当の先生は何も口をはさまないんですが、その時だけは、「座って応援する」とした方がいいな、と指摘されました。私はその時、なるほど! と思ったんですよ。
「それって、どっちでも同じじゃないか」と思った人はよく考えてくださいね。もちろん論理的には同じですよ。けれどもその言葉はかなり教育的な効果をもったもので、あることをするのに従うべきルールが「〜しない」というNegative Listで与えられるのではなく、「〜する」というPositive Listで与えられることで、そこから先の発想が異なるのです。
私が「肯定の文脈で語るべき」と書いたのは、以下のような認識のもとに、です。
何かに反対したければ、単に「反対!」と叫ぶだけでは、結局現実を変革しえず、結果的には反対したかったはずのことが実現してしまう。本気で反対し、阻止したいのであれば、その反対したい対象の主張ですら、自分の一部分とするような枠組みを準備し、それを無力化することのほうがよほど有効だと思うのです。その反対したい相手からの反対をも封じこめ、自分の枠組みのなかに組み込んでしまう。そして自分の望む方向に進めばいいわけです。
テロに反対するなら、テロリストを抹殺していくのではなくて、テロリストが生まれない、生まれてもテロ行為が影響をもたない社会の構築方法を模索するほうが長期的に有効だと私は思うのです。単に「反テロのための軍事行動反対!」と叫ぶだけでは、何も変わらないのではないかと思います。
- ■Predator(2002/08/28)
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これはこのような長年地球上で繰り返されてきた自然のサイクルを超える限度の捕食をしてしまったという単純な現象の帰結です。人間と言うのは、実に質の悪い predator なのかも知れません。
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人間の体内にもいろんな微生物がいたり細胞があったりして、それらが適当な数のバランスと適当なスピードでの分裂と死亡を繰り返しているから、個体として生きていられるわけで、一部の細胞が突出して増えてしまった場合、それを悪性新生物と言います。悪性腫瘍とも言いますね。一言で言えばガンです。
「地球にやさしい」などと欺瞞に満ちた言葉が平気で語られているわけですけれども、もし人類が地球に負荷を与えずに−再生可能な範囲での資源の採集と廃棄物の量で−生活するのなら、地球が支えられる人口は1億人程度だという試算を見たことがあります。まあ、これは極端な数字だとは思いますが、江戸時代の日本の人口は約3000万で推移したと考えられています。人工的なエネルギーを使わず、食物の輸出入もしないで(つまり自給自足で)日本の国土が養える人間はその程度であるということです。端的に言えば多すぎるんですよね、実は。
解散しちゃいましたが、聖飢魔U(Macでご覧の方にはフォントの関係で○数字に見えてると思うのですが、これはローマ数字の2です)のデーモン小暮閣下が、ある本の中で、「『愛は地球を救う』などとほざくヤツがいるが、そういう輩はまず自分から死んでみせなきゃならんはずだ。そうすれば残された者が生き残る確率がそれだけ上がっていくのだ」という意味のことを言ってたんですが、上のような事実を知っているとね、「んなアホな」などと頭から否定できなかったりします。
あと、どうでもいいことですけど、最後の「質」は「たち」と読んでくださいな。
- ■Sum of All Fears(2002/08/21)
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実はテロリストが両国を対立に陥れるための巧妙な作戦−それを暴いていくのが主人公−だったのですが、それを解明できないうちは双方の指導者が「相手は本気でこちらを攻撃してくるのではないか」という恐怖に駆られ、その積み重ね−恐怖の総和−が、世界を破滅の淵に立たせてしまった、というわけです。
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だいたい、「相手はこう考えてるんじゃないか」と心配してるときに限って、いざ会って話をすると何でもなかったということがままあるわけで。まあ、ただしそれは基本的に相手が信義を持って接する可能性があるときにだけいえることでしょうけれども。
端から相手がこちらをだまそうとしているときはそうはいかないですが、そういう場合はどうやって見分ければいいんでしょうね。
- ■非核地帯条約(2002/08/14)
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同様の構想が中東についてもある(中東非核地帯・中東非大量破壊兵器地帯)のですが、核兵器開発能力が十分にあると思われるイスラエルが核非拡散条約(NPT)に参加しておらず、実現はかなり難しいとされています。
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ある地域を非核地帯とするためには、その地域内に核を持たないだけでなく、核保有国がそれらの地域で核を使用しない、核攻撃しないという宣言を獲得する必要があります。勝手に「この地域には核はいりません」と唱えるだけでは「非核地域」とは国際的にみなされないということです。
中東でこれが成立しにくいのは、イスラエルがそれを承認するとはなかなか考えにくいからです。
- ■名誉犯罪(2002/08/07)
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女性のとったある行為がその家族や地域の「名誉を傷つける」ようなふしだらな行為であるとの理由で暴力を振るわれ、拷問・虐待を受けることを指します。その「行為」は、家族以外の男性と話をしたという水準であることも多いそうです。
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例えば古代では、男性が女性に名前を聞くということはプロポーズを意味し、それに答えて名前を教えるというのは承諾したことを意味していました。また中世でも、高貴な家の娘は、そもそも独身の間は親族以外には姿を見られないようにしていたわけです。
また、古代ユダヤでも姦通した女性には石打ちの刑(みんなで石を投げつける)を与えられ、大抵は死ぬまで続けられたそうです。(聖書ではイエスが「今まで罪を犯したことのない者がまず石を投げよ」と言って救った話が出てきますけど。)
そのような価値観の下では、女性(特に独身)が親族以外の男性と親しく話をするなどということは、もってのほかと受け取られたかもしれません。それを咎める際に暴力を振るうこともあったかも知れません。
罪を犯したのだからその社会から制裁を受けても仕方がないという面もあるのですが、男性が同じ行為をしても犯罪と見なされないとか、罪のわりに刑罰が重すぎるとか様々な問題をはらんでいるわけです。
ただ、逆に、近代的な(西洋のと言ってもいいですが)人権観・価値観で、伝統的な社会の価値観に介入して断罪するのは是か非かという問題もはらんではいるのですが。(人権についてはそれでも介入すべしという考え方が主流になってきていると思いますが。)
- ■『マーシャル・ロー』(2002/07/31)
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テロリストグループがアラブ系の青年だとわかると、ブルックリンのアラブ系住民の青年をかたっぱしから拘束したり、逮捕した犯人の一人を拷問にかけたりという事態が起こります。
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テロ−特に一般大衆を狙った無差別テロ−の目的は社会不安を醸成し、混乱を招くところにあるのだから、治安維持のためだからと余計に不安を煽ってはテロリストの目的達成を助長してることになるのです。9.11のテロの時に、合衆国内部で、それまでと同じ生活を続けることがテロへの最大の「攻撃」だという意見があったのは、私は至極妥当で正しいことだと思います。
いやあ、それにしても、いいですよ、この映画。緊張感たっぷりの116分を楽しめます。ちなみに英語の原題は“The Martial Law”ではなく、“The Siege”です。
- ■合衆国の言い分(2002/07/10)
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合衆国が「世界の警察」たろうとしてきたのは、このためではないかという気がするくらいです。
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日本国内ではあまり、最近の、このICCと平和維持活動の関係をめぐる合衆国の行動については報道されてないので、専門家かSUNの読者でないと知らないんじゃないかという気もしますが、これ、単なる合衆国のごり押しというだけのものじゃないってことはちょっと考えてみてほしいです。
ここまで頑なに合衆国が「守ろう」としてるのは何なのかってことを考えると、合衆国が考えている、「国民を守る」とはどういうことなのかがほのかに見えてくるような気がします。その発想を是認するかどうかは別としても。
- ■合衆国の拒否権発動(2002/07/03)
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しかしながら通常は活動委任期限を延長する時は3・6・12か月という単位であることが圧倒的に多く、今回も緊急避難的な措置と言えます。2週間以内に再度延長措置が採られるでしょうけれども、それまでに合衆国がICCの規定とミッション関連の決議を関連させて様々な議論を起こすことは目に見えており予断を許しません。
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etrangerさんがBBSに書いてくれたことがそのまま、この記事の背景の説明になってるんですね。
いやあ、しかし合衆国はどうするつもりなんだろう。延々とこんなことを繰り返すのかぁ?
- ■拷問等禁止条約(2002/06/26)
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本文に訳出はしませんでしたが、原文には、アナン事務総長が9.11テロに伴う捜査について、行き過ぎた捜査や被疑者への扱いをされている危険性があるとし、「人権を犠牲にしては安全は達成されない。("security would never be achieved by sacrificing human rights.")」と強調しています。
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「ヒドイことをしたヤツにはヒドイことをしたっていいんだ」という考えは、人情としてはわからないわけではないけれども、それを認めていないのが近代法なんだな。
人を裁くことを個人から国家に委託することで、復讐の連鎖を断ち切ってるんだな。
- ■ガンバの冒険(2002/06/19)
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人間社会でもこれと同じ構図の状況が繰り広げられている−むしろ原作は現実の社会をネズミの世界に写像したものなのだけれど−としばらく考え込んでしまいました。
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原作は『冒険者たち』というらしいです。
「らしいです」と言うのは、私が確認して読んだわけではなく、DVDの作品に関する資料にそう書いてある、という意味です。アニメ制作に携わった人のコメントによると、原作では、ノロイとは、労働者を搾取する資本家の象徴のようです。襲われるネズミたちは、食べられるために生かされている存在。 アニメではノロイは殺すことを楽しんでいるかのような表現がされていましたが。
見ていて妙にリアルさを感じたのは、形勢がいい時は調子のいいことを言っておいて、悪くなったらリーダーたち(長老やガンバたち)を非難するネズミの存在。普通にアニメをガンバの側から見てると、「どうしてこいつらはこんな勝手なことを言うのだ」と思いたくなるし、実際、ガンバの一緒にノロイを倒すためにやって来た力自慢のヨイショは日和見ネズミに対し怒りを露にします。けれども日和見したネズミにしてみれば、今まで何ともならないと思っていた状況が、外部からの新規勢力の参入で一度は「何とかなるかも」と希望を抱かせたのに、再度状況が元に戻ったのだから、「おいおい、話が違うじゃないかよ」と思うのも無理はないから。
別に日和見を肯定したいわけじゃない。
全体が困った時に、何とかしようと立ち上がったグループに対し、少々うまくいかないことで「何してんだよ」「何とかしろよ」って詰め寄る存在ってのは、人間社会でも多く見うけられることを思い起こさせたから、とてもリアルな感じがしたってわけ。
自分が何とかするなんてことは考えもしないのに、人には「何とかしろ」といえるメンタリティって私にはよくわからない。
- ■Babi Yar(2002/06/12)
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バービィ・ヤールに記念碑はない
切り立つ崖が 粗末な墓標だ
私は 恐ろしい
今日 私は年老いているのだ
あのユダヤの民と同じだけ
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忘却は罪である。
虐殺とは、死を悼む人ごと抹殺させる行為である。
- ■「サキノハカといふ黒い花といっしょに」(2002/06/05)
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ある理想を抱く者は、その理想の実現に反対する者や(明示的には反対しないけれども)その理想に邁進しない者たちを疎ましく思う感情を持ってしまう。いっそのこと排除してしまえ…と思ってしまう。
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自分の信じる「正義」がなかなか実現しない。それはなぜだ? 「あいつら」が邪魔をするからか?
やってしまへ やってしまへ
自分たちは平穏に暮らしたいだけなのに、いつも何かに怯えてなきゃいけない。それはなぜだ? 「あいつら」が邪魔をするからか?
やってしまへ やってしまへ
そうだ、先にこっちがやらなきゃ こっちがやられてしまう!
やってしまへ やってしまへ
…今、世界に満ちている紛争の真っ只中にいる人達の心理とはそういうものなのかも知れない。その状態の心には、「サキノハカといふ黒い花」が咲いている。。。
- ■定義(2002/05/08)
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条約だけじゃなくて、ふつう、法律ってのは、第1条はその法律の対象となる範囲を定義してる場合が多いんです。
難民と言えども、その範囲が限定されないときりがないんですよね。
例えば、仮に私が日本にいるのがイヤになってどこかの国に亡命したくって「難民」の申請を出したところで、そんなの認められないんです。だって、日本に、私の存亡がかかってる事態なんて発生してないし。
昨年、国連ではテロを包括的に取り締まる条約を作成しようとして結局テロの定義に関する合意が得られなくて失敗に終わりました。ひょっとしたら、「テロは悪いことなのに、どうして取り締まれないの?」と思ってる方もおられるかも知れませんが、問題は、誰がどうやって誰かの行為をテロと判定するかってことが判然としていないということです。
まあ、ね、こういう話を現実ばなれした衒学的な議論と言って嫌う人もいるんですが、それって、誰がみても「そうだな」と思えるような議論の基盤を確立していく作業の重要性とか、定義された以降ではそういう行為が極めて行いにくくなる効果とかを無視して、それぞれが好き勝手な概念に基づいて自分の主張を衝突させあう混沌とた世界を是認する姿勢だと、私は思うんですがね。
- ■ビューティフル・マインド(2002/05/01)
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「だめだ、だめだ!」と指摘するのは誰でもできることで、「じゃあどうすれば望む方向に導くことができるか」と考える視点を常に忘れないでいたいと思います。
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なんかねぇ、最近、本とかWebとか読んでても、「○○はけしからん!」とか「△△反対!」とかいうのを多く見かけるし、そういうことを言いたい気持ちは重々わかるんだけれども、それって単に文句言ってるだけじゃないのって思ってしまうわけです。
文句だけ言って解決策を示さないのであれば、それは結局、事態を改善する方向には作用しなくて、文句言われてるほうが、それでもなんとかしようと努力しているのに対し足を引っ張ってることになるわけで、実は、事態の改善を遅らせてるのかも知れないんだな。
- ■権力(2002/04/24)
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、「権力」とは力の行使そのものではなく、実際には力を行使しているにも関わらずそれを「力」と呼ばせない状況を定義し強要できること、です。
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暴力をふるって言うことをきかせるなんて意味の「権力」なんてものは、その暴力を取り除くことができれば一挙に解決してしまいます。そうではなくて、ある解釈のみしか与えず、それ以外の解釈があたかもないかのような状況を生み出す力−したがってそれ以外の解釈をしようとすることに対して圧力が発生する状況を生み出す力−を言うってわけです。
今、合衆国が、自分のやってることを、「テロとの闘い」と位置付け−もちろんそういう面があることも否定はできないのですが−、全て「善」と見なしてしまいそうな状況を生み出しているのは、まさに「権力」が発動されていると考えていいんです。
- ■強さの「弱さ」(2002/04/15)
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圧倒的な力で事態を押し切っても、その一時的な影響力が遠のけば、その痕跡はきれいに拭い去られていく。長い目で見たとき、事態を根本的に変えていくのは物理的な強制力ではないはずです。
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敵対している2勢力のうち、どちらが「正しい」のか、「正義」にかなっているのかなどということが判断できるためには、双方が同じ評価軸を採用していることが前提になります。そもそも座標軸をめぐる争いの場合には、どちらが「正しい」のかによって決着はつけられません。その時、物理的な強制力に訴え、一方が他方を黙らせることで「解決」しようとします。
もしこの方法で決着をつけるなら、一方が他方を殲滅・消滅させないと終わりません。そんなことを誰が望んでいるのでしょうか。
- ■When I'm Sixty-Four(2002/04/08)
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Will you still need me, (まだ私を必要と思ってくれるのかい?)
Will you still feed me, (まだ私に料理を作ってくれるのかい?)
When I'm sixty-four. (私が64歳になった時でも。)
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この歌詞をみて、「のどかだなぁ」とほんわかした感情を抱く人は、たぶん、既に一緒に年老いていける…そして64歳になったそのときにも一緒にいると確信できる…人がそばにいる人なのでしょう。もしくは既にその年齢を迎えて、そういう心配のない方、なのでしょう。
独身の私は、「そういうもんかなぁ」などと思ってしまうのですが。
反対に、この歌詞に怯える人は、おそらく哀しい人生を送っている人です。
- ■意見というものの困った点(2002/03/25)
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ある事態に対して意見を表明することは評論家のすることで、そういうことはそういう人にまかせておけばよくって、現実にその事態を解決したいのなら、「もしかしたらでかまわない」から、解決できるのだと思わせる力のある言葉のほうがよほど効果的だと想うのでした。
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フランスの思想家・J.J.ルソーの『エミール』の序文だったか、とにかく最初のほうに、「大家ぶった批判あなら誰にでもできる」という意味のことが書いてありました。これ、結構、私自身肝に銘じてるというか、常に頭のどこかにおいている言葉です。平たく言えば、「そんなに言うんやったら、お前やってみぃ!」と言われた時に、どのようなことをどう言う手順で実行するかということを少しは考えてみるってことです。もしあなたの周りで文句ばっかりいう人が居て、その人を黙らせたかったら、「じゃあ、あなたは何をどういう手順でどうすれば、あなたが望むようになると考えてるの?」って聞いてみましょう。その人がキレ者(「キレた者」じゃないよ)だったら即座に回答が返ってくるので、即やってもらえばいいし、単なる文句たれの場合は確実に黙ります。
- ■「私たちには1つの世界しかない」(2002/03/20)
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「グローバリゼーション」にも、世界全体を相手に1つの「平等」なルールで競争し強弱を決定していく「奪うグローバリゼーション」と、世界のどの問題も互いに切り離せないことを自覚しそれを解決しようとする「与えるグローバリゼーション」があるのではないかという気が最近してきています。
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「グローバリゼーション」と聞いてワクワクするかビクビクするか。これは心の持ちようのよるものではなくて、その人の置かれている環境(生活している国の状況であったり、属している産業であったりしますが)によるものでしょう。
「イケイケドンドン」と思える立場にいる人にとっては、いいじゃないのぉ! となるんでしょうが、それはそう思えない人々を搾取している危険性は十分にあるのです。
- ■『戦争とプロパガンダ』(2002/03/13)
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これまでイスラエルよりだった合衆国がパレスチナ国家を認める決議に賛成した意図はどこにあるのか注視する必要があると私は考えます。
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引用したサイードは、現代思想が好きで好きでたまらない人にはお馴染みの人でしょう。
「オリエンタリズム」を提唱し、欧米一辺倒になりがちな思潮界に、アジア・中東の視点を投げかけることのできる稀有な思想家と言えます。彼の主張にそのまま賛同するかどうかはともかく、その言葉には耳を傾けるべき価値は十分あると私は判断しています。私が常に言動をチェックしているうちの1人です。
- ■食糧の自給 (2002/03/11)
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、日本の場合、なんだかんだと言っても外貨準備高が相対的に大きいため、食糧を買いあさることが可能なのです。そしてそのことが食糧の国際流通価格を吊り上げる遠因となり、貧しい(当然ながら外貨の保有量が乏しい)国々が食糧を輸入することをより困難にさせてしまっているという面も否定できません。
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食糧の自給率が低いと、国民を飢えさせるか輸入するかです。当然ながら前者の方法は採れませんので(もちろん、放置しておいて「口減らし」するという悪魔的な方法もあるのでしょうが、そんなことをすると、新たに食糧を生み出すべき働き手までをも失ってしまいます)輸入しようとします。ところがそのためには外貨が必要です。そのためには、国内で消費すべきものまでいったん輸出しなければなりません。その結果として国内の経済事情はさらに悪化していきます。
この悪魔のサイクルから抜け出す有効な方策を、まだ世界は見つけ出していません。
- ■『暗い時代の人間性』(2002/03/06)
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武力紛争が起こった場合、事態の悪化を懸念し、関係勢力に和平交渉のテーブルにつくことを要請する、という意味のコメントがなされることが多いわけですが、時折そんな「対話」で解決しようとしても可能なのかという思いに駆られることもあります。けれども…いえ、それだからこそ、そのような状況下では異なる者の間の会話・対話が必要であると、アーレントは言っているように思えます。
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この『暗い時代の人間性』の中でアーレントは意外なことに、もし自分が何者だと聞かれたら、「人間だ」と答えるのではなく「ユダヤ人だ」と答える、と言ってます。
「意外なこと」と書いたのは、差別なり弾圧なりを受けた/受けている側が、「同じ人間じゃないか」と主張するよりも、まさにその迫害される立場であることを明示するような言い方を選んでいるからです。「グロテスクで、危険な現実逃避」とまで言ってます。なんだかよくわからない抽象的なものへの帰属を宣言することで、「個人的アイデンティティも規定され、匿名的なもの、名前なきものに解消されてしまうような政治の現実」に押し流されてしまうためです。
私個人は「人類」なんてものは、現時点では抽象名詞だと思っています。現時点において人類愛を叫ぶことは自由だけれども、それを出発点としたところで現実の世界を変えたり救ったりすることはできないと思っています。ここを読んでくださってる方が全員日本人かどうかわからないですが、とりあえず日本語を理解できる人として、日本に対して何らかの感情(好悪は別として)を持っておられることと思います。そんなあなたが日本(もしくは日本人)を愛したり憎んだりはできても、人類全体を愛してるなんてちょっと私には信じられません。だって、もしホントに人類を愛してるんだったら、世界に何十億人もいる、その日の食べるものにも、寝る場所にも困っている人を横目に、不景気とは言えこんなにも豊かな日本でのほほんと暮らしていられるはずはない(日本在住でなくとも、少なくともインターネット接続環境を確保できるくらいの収入がある)からです。
結局愛しているのは、自分の身の回りにいる、顔と名前の一致する範囲の相手でしょう。
「同じ人間だ」という論点は、出発点ではなく、帰結点に持ってくるべきではないかと私は考えています。
私に守るべき存在があるように、あなたにも守るべき存在がある−その点では一致する、そういう一致点を1つずつ積み上げていって「人類」なるものの特性を形成していく。そういうプロセスを経ずに「あなたと私は同じ人間だ」なんて言われたら、強引に相手が自分を同化しようとしてるとしか思えなかったりするわけですね。(だって、60年ほどまえ、日本はアジア各国に「われらは同胞、同じアジア人!」みたいな触れ込みで言ってたんじゃないのかな?)
紛争が起こってるってことはね、「同じ仲間だ」なんて思ってないから、でしょ?
そんな人たちに「同じ○○じゃないか」というロジックはすぐには通用しない。
差異はあまりにも多いかもしれない。それでも1つずつ共通点を見出していく。もう、それは、絶望的なまでに長い長い、根気強い対話の果てにしかできないことなのかも知れないけど。
- ■スイスの国連加盟(2002/03/04)
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さて、今まで国連に加盟してこなかったスイス国民の見識をどう思いますか?
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さて、ここで私は敢えて「スイス国民の見識」と書いたのは、スイス連邦憲法では、国連加盟等の問題については国民投票に諮らねばならないため、これまで国連に加盟しなかったのは歴代政府の判断だけでなく、スイス国民の判断でもあったからです。そして、永世中立の国是を維持するためには、集団自衛権による制裁を前提とする国連憲章の許に参加するのは整合性がとれないと判断したってことだからです。日本的な感覚からすれば、「みんなが入ってるグループなんだからいいじゃん」ってことになるのかも知れませんけどね。ほんとは、細かいこと言うと、国連憲章と日本の加盟って整合性とれてない面もあるんですよねぇ。
- ■アンゴラ情勢(2002/02/13)
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激しい内戦で1,200万の国民の3分の1は家を追われ、3分の2は貧困状態で生活しており、平均寿命は44歳、新生児が5歳になるまでに3分の1が死するという状況であり、「アンゴラを忘れてはならない("Remember Angola")」と強調した。
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実は私の配信の時には、記事の順番を、国連のサイトの表記とは別に並び替えています。その日の記事の中でもっともインパクトがあるもの、重要だと私が思う順番になっています。
今、世界の目がアフガニスタンとパレスチナにしか向かっていないのは、結構危険な状態でもあるわけです。
- ■グローバリゼーション(2002/02/04)
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一口に「グローバリゼーション」と言っても、経済的な側面だけでなく、付随して政治的側面・文化的側面の世界的な一元化、時間的空間的の距離の短縮など影響は多岐にわたるわけで、「グローバリゼーション」こそが絶対善であるという「主義」になってしまっては、それに従わないものを圧殺していく危険性も帯びていきます。
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現実としての「グローバリゼーション」と、理念としての「グローバリズム」はきちっと区別しなきゃいけない。「グローバリズム」にも、「地球は一家、人類は兄弟」というノーテンキなスローガンから、世界制覇をもくろむ許しがたき悪の組織(ショッカーとか?)の唱えるものまで千差万別。誰かが「グローバリズム」と言う時、それはその人の「グローバリズム」だったりするわけだ。合衆国大統領が「グローバリズム」と口にしたら、やはりそれは(世界のアメリカ化という意味での)「グローバリズム」と聞こえてしまう。
- ■未来の感覚(2002/01/31)
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ふと、私が「自分に起こる将来の事象を書いてください」といわれてどれだけのことが書けるのか、と自問してしまいました。
みなさんはいかがでしょうか?
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私は今35歳なのですが、結構、いろんな転職での区切りの年齢でもあるんですよねぇ。ここを超えると募集がぐっとへっちゃう。じゃあ、今の職場でずっといくのか(いけるのかという話もあるけど)、もっとキャリアアップを目指すのか、とかね。それに今独身ですけど、まあ、何かの間違い(!)で結婚するかも知れないし。すると「自分に起こる将来の事象を書いてください」といわれたとき、ちょっと「う〜ん」とうなってしまうのでした。
- ■One man's terrorist is another man's freedom fighter.(2002/01/28)
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記事本文においても「テロリズムの定義及び解放運動との関係」という表現で出てきています。
しかしながら、「解放運動における暴力行為」が「テロリズムの暴力行為」と明確に区別して、より前者がましだなどということはないと私は思います。
行為する者の意図はどうあれ、理不尽な死を強いる方法を一切是認してはいけないと思います。
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…こう書くと、解放運動を是認するなというふうにもとられかねないんですが、私の意図はそうではなくて「活動Aはテロなので断固撲滅させるけど、活動Bは解放運動とみなし、介入しない」なんてことが国際条約で定められてしまった場合、何かしでかしたい人々は解放運動の定義に当てはまることを主張するだろうし、そもそもその認定を誰が行うんだとか、その認定に法的拘束力があるのかとかって考えたら全然実効的じゃないような気がする。
そもそもですよ、テロであろうがなかろうが、自分の価値観を主張するために、無辜の人を殺すってのはそれだけで許しがたい犯罪なんだってば。
- ■(無題)(2002/01/21)
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本当の犠牲者は無名で匿名で、忘却の穴に落ちこんでしまって存在すら忘れ去られているのではないか。
どんなに情報を手にし、理解したところで同じ境遇に置かれない限りは《他者》のまま、その遠くを通りすぎるだけで、少しは近づいて《隣人》にすらなろうとしていないんじゃないか。そんな思いがよぎることがあります。
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最近、「一言」をサボっておるな。
って言うか、記事を訳したときにピンと来るものが、最近はないのだぁ。うーん、感覚が鈍ってきたのかなぁ。
さて。
ちなみに、本当にもっとも苦しんだ犠牲者は、犠牲にあったことさえ忘れ去られ、抹消され、記憶にも残らないという状況なのではないかと言う考え方は、以前にも触れた、アーレントの『全体主義の起源』にも出てきており、彼女はこれを「忘却の穴」と表現しています。
仮に忘却してしまわないとしても、そのような人々と関わろうとしない−「隣人」とならない−でいるという状況の蔓延をレビナスが指摘しています。
たったあれだけの言葉ですけど、ほんとはね、解説するのに本が1冊くらい書ける背景があるんですよ。
- ■人はいかにして狂信的になるか(2002/01/09)
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タリバンの指示に従う(敢えてこの状況を「支持する」と表現しますが)ことでしか生活を続けられないという仕組みがビルトインされてしまっていたのではないかというのが暫定的な私の考えです。
この説明の構図は『全体主義の起源』で採られているものと似ているのではないかというのがその次の私の着眼であって、“タリバンはナチズムやスターリニズムと同様の全体主義である”と主張したいわけではありません。
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…という説明でわかっていただけるのかなぁ。
- ■人はいかにして狂信的になるか(2002/01/07)
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つまり、タリバンのとった統治の手法は『全体主義の起源』(H.アーレント)で示される「全体的支配」だったのではないだろうかというのが、現在の暫定的な私の考えです。
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「イスラム」「過激派」「原理主義」という言葉を並べて、さも全て理解したかのような説明って、何かすっごく変な気がするんです。結局、それって、「何だか得体の知れないもの」(と日本人が受けとめてしまいそうな概念)が、現在の事態を招いているっていうことにしておきたい−ということは自分たちは関係ないとこでの話にしておきたい−だけなんじゃないのって思うんですよ。
ちょっとこれだけだとわかりづらいかも知れません。水曜日分の「ひとこと」を使って補足説明するつもりですので、乞うご期待。
- ■立っている場所(2002/01/02)
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普段何気なく使ってしまっている言葉の奥底に、自分が立っている場所を表明してしまっていることを自覚しながら語っていきたいと思います。
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震災から立ちあがろうとした神戸が合言葉にしたのは「がんばれ! 神戸」ではなく、「がんばろう! 神戸」。実は「頑張れ! ○○」とか「△△応援」とか言ってるってことは、「私は主体者じゃないよ」ってことで、運動のスローガンとしては限界があるんだわ。その限界を自覚してればいいんだけど、そうでないとなかなか成果が現れない時に「どうして私がこんなに応援してるのに、あなたは頑張らないの!!」っていう本末転倒した怒りを、当の激励してたはずの対象に向けてしまうことになりかねない。