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Title : Complimentary 2001

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2003年 / 2002年 / 2001年 / 2000年

戦争の年(2001/12/26

ここまで日本が激変してるとさ、
自分も変わんなきゃって、
あせっちゃうんだよね。

 みんなが変わるから自分も変わろうとするのは、結局、自分を形作っている軸というべきものはそこにはなくて、何からどのように変わったのか判然としないまま、でしょう。(実は「みんなと一緒」というのは変わらなかったりする。)

 世の中が変わるから自分も変わる! というのは、要するに流行に乗り遅れたくないだけの行動なんだな。自分が何者かがわかってて、何をしたいか、何をなさなきゃならないかがわかってるんなら、あせることなんてないんだってば。

 それにつけてもシーマンのほしさよ。

2001/12/31
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特定通常兵器使用禁止制限条約(2001/12/24

 もちろん「人道的な」(非人道的でない)兵器があってたまるかという意見は一理どころか十理も百理もありますが、上記のような兵器は、その犠牲になった姿があまりにも人間の尊厳を傷つけるような性質のものであるから、1974年に開催された国際人道法会議の設置した委員会での議論をもとに条約として成立したものです。

 スッポン(ちなみに漢字では「鼈」と書くのだが、ここでは本筋から離れるので触れないことにする。)料理を作るためにスッポンを殺すのに、「首を落とす」のと、「生きたまま鍋で煮る」のと、どちらが「人道的」かというと、どうも、前者らしい。見た目の残酷さがどっちが上かというのではなく、苦痛を与える時間がどちらが短いかということらしい。
 「見た目が残酷」というのは、所詮、食べる人間側の論理ってわけだな。食べられるスッポンの側からは「どうせなら一思いにヤッてくれい」ということになるってわけだ。(←と考えてるのも人間の論理じゃねぇかと気付いた人はスルドイ。)

 この条約で言う、「特定通常兵器」は、その兵器の攻撃を受けた人々を殺すことよりも、戦闘能力を奪うことを重点にしている。こう書くと「人道的」のように聞こえるが実体はさにあらず。「殺さない」ということは「活かす」ことではない。「半殺し」「生殺し」の状態にすること、なんだ。
 「体内に検出不可能な破片を残すような兵器」だと、破片があまりにも体内の多くの箇所に散らばり、かつそれが微小なため治療のしようがない。地雷だと兵士だけでなく子どもを含む住民の手足だけを奪ったりする。つまり、戦闘が終わった後の生活まで破壊してしまう兵器というわけだ。

2001/12/31
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戦争の年(2001/12/19

 確かに、未来を予測する最も確実な方法は、その未来を作り出してしまうことではあるのですが、このような「未来予測」は実現してほしくはないものです。

 この、「未来を予測する最も確実な方法は、その未来を作り出してしまうこと」という言葉は、アラン・ケイという人の言葉です。

 そもそも予言ってものを私は端から信じてないんですが、「予言」が的中するのには2つの場合しかないと考えてます。
 1つは、その予言が自然法則に基づく場合。
 そしてもう1つは、その予言が正しいと信じた人たちがその実現の奔走して本当に実現してしまう場合。特に意志と権力を持った者の「予言」ってのは、そのまま「命令」になっちまうので実現してしまうのですな。いやはや。

2001/12/22
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義士・志士(2001/12/12

そこでイジワルな質問。
Q1:動機が純粋なものであれば、殺人も賞賛されるのでしょうか?
Q2:「大義」に立ちふさがる人物の「排除」もやむをえないのでしょうか?
Q3:彼等の行為はテロではないのですか?
Q4:仮に彼らの行為を「その時は仕方がなかったのだ」と是認するなら、現在のテロを認めない理由はあるのですか?

 結構、日本人にとってはテロってリアリティがないかも知れないと思い、時節柄、忠臣蔵をネタに何か書けないかなぁと考えて書いた「今日の一言」。
 討ち入り(=復讐)を果たした47人の「殺人者」を「義士」と称える心理と、テロを支援し、その行為に喝采を上げる心理に違いはないのではないかという問いかけ。もしこれを読んだ読者が、「違いはない」と思うのなら、自分の心の中にもテロに喝采を与える気持ちがあることを認識してほしいし、「違いがある」と思うのならなにがどう違うのかを徹底して考えてほしい。

2001/12/17
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エンロンの凋落(2001/12/03

 日本に帰ってからも、エンロンジャパンの方と電力自由化に関連して意見交換をしたこともあり、エンロン関係で出会った方々が今どうされているのか心配です。

 まあ、合衆国では転職が頻繁に行われるし、エネルギー業界の企業は結構あるので、優秀なエンジニアであれば次の就職先には困ってないでしょうけどね。

 あ。本文上部の日付がまちがってる。
 気がついてました、みなさん?

2001/12/12
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SUN3周年(2001/11/28

 私自身が翻訳に手を挙げたのは「それが面白かったから(It's fun for me)」なのですが、それでも1日分ずつでも積み重ねて行くと、それなりの蓄積となっていくのだなと我ながら感じています。

 この「それが面白かったから(It's fun for me)」というのは、コンピュータ業界で大騒ぎのLinuxの創始者であるリーナス・トーバルズが出した本の題名です。ただしくは「それがぼくには楽しかったから」ですけどね。

2001/12/04
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苦しみを見た者の義務(2001/11/26

 フランスの哲学者であるポール・リクールはこう言います。
 人の苦しみはそれを見た者に義務を負わせる。
 (エリ・ヴィーゼル編;『介入? 人間の権利と国家の論理』;藤原書店)
 もし「力こそが正義を生み出す」という立場に立つのなら、上の命題を達成するのは大して難しいことではなくなるでしょう。なぜなら、力でその苦しみを解消させればよいからです。「力の行使こそがその苦しみを生み出す」という立場に立つ時、重大で困難な問題に直面することになります。

 美しい理想を口にするのはとっても簡単で、それに人が従うように呼びかけるのもすごく簡単で、それを呼びかけている人は聖人のように思われてしまう。でも、その呼びかけている人がその行動を起こしていないなら、自分は決して危険にさらされない安全地帯から発言しているなら、実はそれは偽善でしかない。

2001/12/04
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テロの定義(3)(2001/11/21

 テロは悪であるけれども、そのテロが行われてしまうこの世界で生きていくという現実を認め、自らの内部に「悪」が潜んでいることをも自覚しつつ、それでもテロをなくしていくにはどうすればよいかを模索するという視点が必要ではないかと思うのです。

 そして、さらにそれを発展させたのが今回の「一言」です。
 非難するとき、または問題点をあげつらう時、人は、安全地帯に立って(いるかのように思いこんで)それを行います。自分がその問題の一部であると言う事実を巧妙に隠したままで。
 この問題意識を明確にまとめてある本が最近出版されました。森岡正博著『生命学に何ができるか』(勁草書房)です。「悪への遡及法」という言葉もこの本に出てきます。

2001/11/23
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テロの定義(2)(2001/11/19

 私が物事を突き詰めて考える際には、常に「そう言うお前はどうやねん」という問いを自分に向けることにしています。例えば「タリバンは女性を抑圧してきた」と非難しようとするときには、「そういうお前は女性を抑圧していないと言えるのか?」と自問するということです。

 この問いをみて、新約聖書・ヨハネ福音書に出てくる姦通した女性の話(ヨハネによる福音書第8章第1節〜第10節)を思い浮かべる方がおられるかも知れません。これはイエスを困らせようとファリサイ派の人物が「この女は姦通しており、モーセの律法では石で打ち殺せとあるがどう思うか」と問いかけてきたことに対し、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、石を投げなさい」と答えたところ、当然ながら誰もが石を投げられなくなったことを指します。

2001/11/23
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笑い(2001/11/14

 自分の周囲でも安心して話をできる相手というのは、同じことで同じように笑える相手のような気がします。
 たぶん、同じことを楽しいと思い、一緒に笑える相手とは戦えないと思います。
 もちろん、「一緒に笑えないヤツは敵だ」というのではありません。
 一緒に笑えることは何かないだろうかという切り口も、ありえる1つのアプローチなのかも知れません。

 「一緒に笑える」相手がそばにいるというのは結構な贅沢なのかも。
 …ってなことを三木道三も歌ってた。

2001/11/19
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「世界を救う」と口にしてみる(2001/11/12

 もし「世界を救う」なんて言うのなら、
 自分が愛する者たちや 自分を愛する者たちだけでなく
 自分が愛さぬ者たちや 自分を愛さぬ者たちをも
こぞって救ってみせないと世界を救うことにはならないと思うのですが。

 誰かを救うこと自体ももちろん難しいのですが、その誰かだけを救うのであればまだ簡単なのです。それ以外の人を見捨て、犠牲にすればその誰かだけを救える可能性は高まりますから。自分が救えない者たちを「消去」した世界を構築して、それを「楽園」と呼び、そのことを信じる者だけがそこへ行けるということが「救い」だと言うのなら、そんな「救い」はまっぴらごめんです。少なくとも私はね。
 多くの宗教では、現世を汚れて乱れた世界だと認定し、そこから逃れるためにはこの教義を信じよという構造をとることが多いのですが、その「汚れて乱れた世界」こそが世界のありようであって、その中でこそ人間の苦悩も、それとの格闘の末にある歓喜もあるのだと私は考えています。

2001/11/19
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テロの定義(2001/11/07

 戦うべき相手はそこにいる人間ではなくて、そういう暴力に駆り立てる世界の暴力性だと思います。

 マンガの『ドラえもん』は結構、暴力とルサンチマンを肯定しているのではないかという批判がありまして。
 ジャイアンってよく、「ノビ太のクセに生意気だ!」とノビ太をいじめたり、持っているものを取り上げたりしますよね? そこで正攻法では敵わないノビ太は「ドラえも〜ん!!」と泣きついて、4次元ポケットから出してきた道具で反撃しますよね?
 これは話の基本構造として圧倒的な強弱関係が前提とされていて、弱者の側は、現代ではありえない未来の道具を用いるという禁じ手で対抗することが是とされているのだ、という批判です。
 で、これを踏まえた、今回のアフガン攻撃という事態に対する「日本=スネ夫」説というのがあります。
 なぜスネ夫かって?
 スネ夫って、直接ノビ太をいじめるわけじゃないけど、ジャイアンの側に常に立ってますよね?

2001/11/11
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合衆国の核廃絶決議案への反対(2001/11/05

 これまで小説の中での話でしかなかった核テロの危険性が、じわじわと高まってきている昨今、核兵器が使われてしまう前に、核兵器と言う悪魔の爪を人間からもぎとる第一歩として、CTBTの実効化は是非とも実現して欲しいものです。

 「核テロ」と言っても、何も核兵器を開発したり、ミサイルに搭載する必要はありません。自爆テロを戦術として用いることができるのであれば、一定量以上の核物質を一定空間内に閉じこめて通常爆薬で着火すれば、かなりの破壊力を持ちます。仮に核爆発をしなくても、周囲を放射線で汚染することができます。また、今でも想定されているように、原子力発電所への自爆攻撃でも同様の被害を持たせることができます。
 少し前までなら、テロリスト側にも、ハイジャック機を爆破するにしても搭乗客を降ろしてからというふうに、「堅気の衆には迷惑をかけない」というような「仁義」らしきものがあったのですが、もはやそれもなくなってしまったようです。

2001/11/08
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当事者(2001/10/31

 実は結局誰もが「(事態に)巻き込まれた」と思っているような気がします。
それで自分たちを巻き込んだ相手(と見なした存在)を攻撃しあい、それでいっそう巻き込まれる人が増えていく…そんな構造に陥っているのではないでしょうか。

 実は、一連の事態に対し、それぞれが「戦う」相手を間違ってるんじゃないかという疑念がありましてね。
 それがはっきりしない…というかズレてるのに「戦う」ので、かみ合わず、ひょっとしたら終わろうにもその糸口がなくなっているんじゃないかという気がしてるんです、最近。

2001/11/04
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「いちばん恐いもの」(2001/10/29

 一連の郵便物による炭疽菌テロは、あて先の人物だけを狙ったのではなく、このような社会生活の基盤を支えるインフラに対して不安が高まることをも狙ったのではないかと思われます。
インターネットや携帯電話など様々な通信手段が発達したとは言え、実際にはいろいろな書類や物品は送らねばならないし、そのための業務を止めるわけにもいかないのに、それが安全ではないと思わせることに結果的には成功しているわけですから。

 数年前に、ケビン・コスナー主演の『ポストマン』っていう映画がありまして。
 核戦争か何かで世界が崩壊したなかで、放浪しているコスナー演じる主人公が、寒さを防ぐために乗りこんだ車が乗り捨てられた郵便配達車で、そこに捨てられていた郵便物を届けようとする話です。
 最初は「合衆国の郵便配達人だ」と名乗ることで「合衆国は新たに郵便制度を復活させる意向で、各村は配達人に食事と寝る場所を提供すること」と騙るわけですが、たまたま訪れた村に、届け先の婦人がおり、信じられてしまいます。彼の行動に心酔した少年が自分を郵便配達人にしてくれとせがみ、仕方なく「任命」します。
 主人公が村を離れて帰ってくると、なんとその少年が、多くの少年・少女を束ねて郵便配達制度を復活させてしまっていたのです。そしてその主人公のことは「ポストマン」として伝説の人になっていたのです。
 めちゃくちゃな社会情勢の中でも、人と人をつなぐことがどんなに重要で人を励ますかを考えさせられた映画で、「郵便配達も楽じゃないな」と思ったもので。そういう職業に携わる人を苦しめちゃいけません。

2001/11/04
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「保全」と「保存」(2001/10/24

 さて。私は本文では(原文が"protect"であったこともあり)敢えてどっちともとれない「守る」と訳しましたが、どちらが適当だと思われますか?
 それとも別の解があるのでしょうか?

 これ、敢えて私の考えを書かないことにしました。
 じっくり考えてみてください。

2001/10/27
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「過去を忘れる」続報(2001/10/22

今後も不自然だと思ったら、記事ではそのまま訳すものの、「一言」などで補足するようにしたいと考えています。
もし海外で受信されている方で現地報道と配信記事が異なる場合などがあれば指摘して戴きたいと思います。

 特に補足することはないんですが。
 そうそう、なぜ訂正版を出したかと言いますとね。
 細かい部分で妙な日本語を連発してしまったので。ごめんなさい、疲れてるんです。m(__)m

2001/10/24
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「過去を忘れる」(2001/10/17

東ティモールに帰還した元民兵指導者が自分の指揮下にあった組織の暴力に対し責任をとると発表していること自体は賞賛しますが、そういう暴力があったという歴史について「全ての東ティモール人は過去を忘れなければならない(every East Timorese must "forget the past")」と語っていることは、私は長い目で見たときに望ましいとは思えません。

 しかし、やはり、過去はそれがいかに残酷であろうとも(残酷であれば残酷であるほど)風化させてはならないと思います。
 今回のテロも、それへの報復も同様です。

 実はこの「一言」に対し、東ティモールにおられる読者の方からメールを戴きました。やはりその方もこの発言(「過去を忘れなければならない」)を訝しく思われたらしく、現地での報道をメールで送っていただきましたが、同じ意味にとれるような記述はありませんでした。
 ひょっとしたら翻訳ミス(英語→日本語ではなく、現地語→英語の段階でのミス)や要約ミスがあったのかも知れません。

2001/10/20
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ペシミズム(2001/10/15

 誰もが考えることをやめてしまって世論が一気に一つの方向に流れてしまう−しかも絶望感を背景にした方向へ−と傾れこむことを避けねばなりません。

 引用したアランというのはペンネームなのですが、前回の「今日の一言」で引用したシモーヌ・ヴェーユの哲学の恩師でもあります。ヴェーユの基本的な反戦へのまなざしは、このアランから受け継いだものだと私は思います。
 アランの「楽観主義は意志に基づき、悲観主義は気分に基づく」という考え方は彼の著作のあちこちに散見されるもので、基本的に私のお気に入りのフレーズです。楽観主義というのは「なるようになるさ」というノーテンキな感覚ではなく、「なるようにする」っていう強烈な意志に基づく(そうだからこそ楽観でいられる)ものだというのは現代にも通用する鉄則だと思います。
 ちょっと前に流行った「明日がある」ってのはノーテンキな部類に入る発想だなと思ってましてね。あれは明日が来ることが保障されてる(か、そう思いこんで疑問をはさまない)人間がのんきに歌える歌であって、別の強烈な意志の前には無力になる危険性を帯びてるわけですね。

 自分の望む「明日」にしようとする意志は必ずしも善意に基づくものではないのですから。

2001/10/17
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「英雄」の連鎖(2001/10/10

 「英雄」を待望し、自己同化し、自分の行動を正当化する心理との深くて長い闘いが戦闘終結の後に必要となるのではないかと私は考えています。

 時代の閉塞感が高まれば、それを一気に解決してくれる人物を待ち望み、それらしき人物が出てきたら一挙に担ぎ上げてしまう「英雄待望論」というのを、私は危険なものだと認識しています。以前、「deus ex machina」(7/18付)でも書きましたが、それは「時計仕掛けの神」を待ち望む心理と同型です。「英雄」を待ち望む民衆がいて、それに答えようとする思いこみと自意識の旺盛な人物とそれを演出できる参謀なりコーディネータがいれば「英雄」はプロデュース可能です。でも、それではいつまで経っても、テロはやまない。
 ヴェーユが言ったのはテロのことじゃないけれども、歴史上で人を大量に殺戮して有名になってる人物だけじゃなく、彼(うん、たいてい男性なのだな、これが)を持ち上げてる方の責任も重いぞって彼女は言ってるのでありました。

2001/10/15
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我々の内にひそむ女神ベローナ(2001/10/08

 「今日は何か起こっていないか」とテレビをザッピングしている姿には、「何かが起こってほしい」という「期待」はありはしないか。戦争を否定するなら、何も起こらない(戦闘が行われない)ことこそを歓迎すべきではないのか。

 引用したR.カイヨワは有名な社会学者で、人間にとって「遊び」は何かを追及した人です。人間がワクワクドキドキするものと戦争には会い通じるものがあるということを、その本の中で著しています。
 日本では多くの人が戦争反対をしており、そのこと自体、喜ばしいことなのですが、実は自分の中にあるベローナに見てみぬフリをしているだけでは、今後状況が変わった時、戦争を支持する側に回る危険性はいくらでもあります。

2001/10/11
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『地下室の手記』(2001/10/03

 「地下」に潜伏しているであろう、テロ攻撃の首謀者は今いったい何を考えているのだろうと考えてしまいます。

 正直なところ、これ、書いてて、なんかまとまり悪いなぁと思いつつ、書き足すと余計に妙な文章になったので思いっきり削って配信した、まあ、ほぼ失敗作に近い「一言」。
 この文章だと、テロリストはわけのわかんない相手だと言ってるように見えちゃうので、とってもよくない文章なのであった。

2001/10/08
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'ground zero'(2001/10/01

 先進国の中ではここ100年ほど本土を外国から攻撃を受けたことがなく、ましてや爆撃を経験したことなどないのが合衆国です。私たちが想像している以上の衝撃を受けているとは思うのですが、爆撃されるとはどういうことなのかというのを如実に合衆国は知ったはずです。他国を爆撃する前にそのことを一度考えてほしいと思っています。

 細かいことを言うと、イギリス軍にワシントンを攻められたことがあるとか、真珠湾攻撃で空襲を受けたことがあると言えばあるんですが、今回のテロで普通の国民が「爆撃」されるとはどういうことかを(地球の裏側の話や映像として見るだけではなく)如実に知ることになったわけです。これまで各地で合衆国が繰り広げてきた爆撃とくらべて規模は小さくてもこれだけの衝撃があるのだということを、合衆国の国民に考えてほしいです。日本でいくら「攻撃反対!」と言っても、合衆国への影響はとってもとっても小さいですから。

2001/10/01
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非対称(2001/09/26

 テロリズムに訴える側は、それしか方策がないと思いこまざるを得ないほど追いこまれ、怯え、恐怖しているように思えます。それが余計に国際社会との間で不安と恐怖の連鎖を生んでしまう。
そうではない方途がありうるのだ、それをともに模索しようと呼びかけることは荒唐無稽なのでしょうか?

 Terror(恐怖)に怯えているのはテロリズムの虜になったテロリストの心ではないのか?

2001/09/30
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「戦争」の終わらせ方(2001/09/24

 通常「戦争」を終わらせる際には、当事国の一方が双方と国交のある国を通じて和平交渉の意図を伝えるものですが、今回の場合、そのチャネルが事実上1つしかなくなったことになります。
この最後の外交チャネルをも閉じることになった場合、それが当事国のどちらの意図を反映したものであれ、まともな「戦争」の終わらせ方を想定しない−つまり、適当なところで和平交渉で終戦ではなく、一方が殲滅するまで戦う−ということに成りかねないことを意味してしまいます。

 今回の合衆国の行動を「戦争」と呼ぶべきなのかよくわかりません(合衆国内では、20世紀型の国家間戦争とは異なった新しい戦争 New warだという言いまわしがされています )が、始めるのは容易でも、終わらせるのは非常に難しい作戦であることには違いないのです。
 テロリスト側にしてみれば、合衆国が一定の成果を確保し、終結宣言・もしくは安全宣言をしている、まさにその会場を狙ってテロをしかけて威信に傷をつける事だって可能だからです。だからこそ余計に、終わらせ方をきっちり考えておかなければならない。
 外交ルートをどんどん断っているということは、交渉の余地はないと考えているのか、それとも一通りの戦闘の後には交渉できる相手は殲滅されて誰も残っていないということなのか?

2001/09/30
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怯え(2001/09/19

テロの原因が怯えにあるならば、武力によって取り除けないということです。
火は火で消すことは出来ませんから。

 この「今日の一言」に対して感想のメールをいただきました。

以前、「今日の一言」コーナーで21世紀に読むべき本として
E.モラン氏の【E.モラン自伝】というのがありました。
覚えていらっしゃるでしょうか?
そこで、彼がテロリズムについて語っている部分があります。

『異教徒を大量虐殺することが神の意志に沿うことだと確信するものは、
もちろん己の観念のおぞましい性格や、その行為を犯罪的性格を自覚していない。
狂信者の倫理と寛容な人の倫理の間には、避けられない非対称が存在する。
つまり、後者は、自分を殺そうとする狂信者を理解するが、
狂信者は自分が殺す前者を決して理解することはないだろう。』P104

もし、テロリストとは明確に異なった行動を取るのなら、
その者は、まず相手を理解しなければならないのです。どうして、テロを行ったのか?
ということを考えなくていけないのだと思います。

 テロに対し武力で応戦してしまっては、テロを行なった者と同レベルになってしまうのです。主観的にはいかに自分が正しいと思っていようとも。
 テロに訴える者にとっては、主観的には、その方法しかもうない、という追い詰められた状態なのではないかと思うのです。勝ち誇った強者の戦術ではなくて、追い詰められた、ここで譲ってしまってはもう自分たちの未来はないという切羽詰った作戦。その主観的状況を取り除かない限り、延々とテロは続くし、それへの制裁・反撃はなおさら彼らを追い詰めるような機がしてなりません。

 しかし、それにしても、推定無罪(裁判で有罪が確定するまでは被疑者に有利になるように扱い、それまでは無罪とみなす)っていう原則は、合衆国は守る気がないのかなぁ。

2001/09/23
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避難すらできない人々(2001/09/17

同国内の内戦や災害により人道的状況は極めて深刻で、仮に報復が始まったとしても、攻撃によってではなく、飢えによって亡くなる方が多数でてしまう危険性が高いのがアフガニスタンの状況です。

 これまでアフガニスタンに関する記事と言えば内戦の話か難民の話ばかりだったので、丹念にSUNの記事を読んでくださる方にとってはわざわざ強調するようなことではないとは思います。最近の日本のニュースではこのことにも触れていますが、何を今更、などとちょっぴり思ってしまいますけど。

2001/09/23
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同時多発テロ、その後(2001/09/12

 しかし、その悲しみの代償を血であがなうことはできないししてはならないと思います。
テロであれ、それへの報復であれ、無差別大量殺人であることには変わりはなく、それを命じる者もまぎれもなく殺人者です。公正な裁きの場で裁かれるべきです。
 そうでなければ、暴力と憎悪の連鎖がやむことはありません。

 報復と憎悪の連鎖を断ち切らない限り果てしないテロが繰り返される。
 戦争とテロとの違いは、要するに国家がやるかそうでないかの違いだ。仮に私が個人の資格で大量破壊武器で虐殺すればテロで、首相にでもなって行えば戦争ってわけだ。結局、無関係な人を理由もなく大量に殺すことに差はない。

2001/09/18
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同時多発テロ、その時(2001/09/10

 まる1週間前はニューヨークにいて、WTCビルに登り、あの界隈を歩いたいたし、出張出発前には、訪問先の都合等で期間を1週間ずらそうかと検討していただけに衝撃をうけました。

 自分がほんの少し前に訪れたばかりの場所が見るも無残な姿になってるのって、すっごい衝撃。
 一歩間違えばそこにいたかと思うと、特に。
 出張してから、会社とかで「無事帰国しました」とか報告するわけだけれども、少し忸怩たる思いもないわけではない。というのは、「私は無事帰国しました」ということであって、まだそういう報告ができない人もたくさんいるし、2度とできない人だっていっぱいいるから。

2001/09/18
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大リーグの野球場にて(2001/09/05

 (特に言うことなし。だってそのままだもん。)

2001/09/18
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「記憶」・忘れ得ぬものとしての(2001/08/29

「思い出」とは記憶の化石にすぎない
わざわざ思い出さなきゃならないほどに
忘れてしまったことへの言い訳だ
思い出すより 忘れないこと
そのことの方が ずっとずっと大事なのだと
僕はそう思う

 昔からここのページをご覧の方には、この『記憶』の全体像をご存知のはず。

2001/09/03
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選挙(2001/08/27

道の遠きに志は現れるものですから。

 (強制的に行かされるものを除いて)遠い距離を移動して何かをなそうとするということは、そこまでしてそれをしたいと思う、そうすることに価値があると思ってるってことです。

2001/09/03
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無知(2001/08/22

「知は力」であるとすれば、無知は暴力なのです。
 全ての問題の解決は知ることから始まります。たとえそれが悲惨な事実であったとしても。

 例えば靖国問題の根源は、戦争と歴史と国家と宗教に関する無知。
 最近急激に増え出したかのように見える、子どもへの虐待の根源は、親の自分に対する無知。

 まずは知ることから始めよう。

2001/08/24
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危険の回避、とは(2001/08/20

 「危ないから帰りなさい」って一見真っ当な措置のように感じるのですが、実は巧妙な責任回避なのじゃないのかな、なんて勘ぐっていた私は小学生の時からヒネていたのでありました。

 ええっと、まずなぜ月曜日なのに私が訳したかってことなんですけど。
 最近、スタッフがそれぞれにすっごく多忙になって、なかなかデイリーで配信できてないという現実がありまして、暫定的に阿部@木曜が金曜を、私が月曜を、それぞれ追加的に訳すことにしました。ちょっと力の入れ具合に差は出るかも知れませんが、配信されないよりはよいと判断しました。

 さて。
 「危ないから帰りなさい」って、余計に危ない場所に放り出すというような、一見、きちんと配慮してそうで実は事態を悪化させてるということは結構世の中に蔓延してるような気がします。

2001/08/22
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信頼(2001/08/15

 誓いというものはそれを実体化する行動が伴って初めて意味を持つわけで、本当にやらなければならないことは、靖国騒ぎよりも遥か向こうに、信頼醸成に向けた長い長い作業として待っていると私は考えています。

 「靖国騒ぎ」と書いてしまいましたが、問題の根源は靖国神社に参拝したかしないかなんてところにはないと思ってるからなんですが。公人か私人かなんてたてわけも無意味。だって「私人です」なんて言ったって、その人が行ったことには変わりはないし、みんなそうだと思ってる。本人が「違うもん」って言ったって、そういうもんだとして周りは動く。その影響も、参拝したかどうかという事実そのものが影響を与えてる。ってことは事実上、どういう説明があろうと公式参拝でしょ。
 ただし、個人の宗教的信念にも基づいた行為というのは、それが公人であろうと尊重されるべきだと思う。その公職の職務権限・機関決定でないという了解のもとで、行為をなすことを禁止すべきではないと思う。けれどもそこから派生する結果・影響については、徹底して引き受けるべき。それでもやるというのが「信念」だろうし、自分の行為による責任を負うのは公人として当然のことだからだ。

2001/08/19
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くに(2001/08/08

さて、ここで質問です。 国って何でしょう?

 日本では、「神」にしろ「お上」にしろ、「カミ」とは、民と対峙するものではなくて、民を庇護するものとして捉えられているのかも知れない。でも国家っていうものは「そこにあるもの」ではなくて「そこで作るもの」だ。頑張って、片意地張って、肩に力を入れてないと維持できない。だから国旗とか国家とかで国威発揚してなければ成立しないんだ。
 あ、別に、「君が代」「日の丸」のことじゃなくて。すっごくわかりやすいのは合衆国。星条旗(Stars and Stripes)への忠誠(Royality)ってのはすごいものがある。って言うか、合衆国の場合、移民から始まった(ある意味画期的な人工的な)国だから、そういうものを象徴にしとかないと国民としての一体化を図れないんだな。

2001/08/16
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資産と不良資産の境目(2001/08/01

 「持つ者」は「持たざる者」よりも強いのは強いですが、「持たざる者」が、「持たない」ことを逆手にとってそれまでの「持つ−持たない」の評価軸を無意味化する方策に出たとき、大慌てするのは、中途半端に「持つ者」なのかも。

 「持てる者」が強いという状況は「規模の経済(economy of scale)」が働いている時。それが機能しなくなるのは、それを支えていたインフラが物理的に劣化するか、論理的に「陳腐化」させられた時。ばかでかい相手に立ち向かう時は、玉砕覚悟で突っ込んで行くのではなくて、その足元を掘り崩すだけでも結構有効だったりするわけだ。

2001/08/06
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而立と不惑の間(2001/07/25

 旅行に良く行く友人に言わせれば「知見が広がる」そうなのですが、それではと、友人が行った国のことにいてどっちがよく知っているかと競い合ったら知識量ではこちらが勝ってしまったりするので、つまらぬ「喧嘩」をしてしまったりします。

 知識量で敵わないと悟った友人で「人情がいい」とか言い出したりすることもあるんですが、「旅行者に寛容なのは観光地ならどこでもそうで、同じ感覚なら日本ででも味わえるだろう?」なんて反論して黙らせてしまったりします。「本だけじゃわからないことだっていっぱいある」なんて言ってきたら、「じゃあ、僕は、奈良県の全ての市町村に足を踏み入れていろんな人と話をしたけれど、そういう君は自分の生まれたとこをどれだけわかってるの? 海外に行ってどれだけ現地の人と話をしたの? それで何がどうわかったの?」なんてトドメを刺したりします。
 イヤなヤツですねぇ、私って。

2001/07/28
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deus ex machina(2001/07/18

 「デウス・エクス・マキーナ」とは、中世のヨーロッパの劇で物語の最終部分で主人公の置かれている状況が極めて深刻になったとき、天上から神が現れて全てを解決し、大団円を迎えるという趣向がよく用いられる。当然、その「神」は大きな舞台装置であるので機械で作られており、それが困ったときに全てを解決してくれるので、「機械仕掛けの神(deus ex machina)」と呼ばれます。

 ここをご覧になっている方にはこの引用は重複したことになるわけですが、ここで書かれている「機械仕掛けの神」なんて関係ないや、と思ってる方もおられるでしょうね。でも、それはたぶん違いますよ。今の不景気な世の中、リーダーシップのある指導者が現れて…という「英雄待望論」って、「機械仕掛けの神」を待ち望む精神と同型ですよ。

 それから、さすがに「今日の一言」では書けなかったのですが、最後の記事(紫外線の話)を訳してて、(関西ではなかなか見れませんが)ガングロにしてた女子高生は将来どうなるんだろうとか心配してしまいましたが。

2001/07/21
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Anniversary(2001/07/11

 過去の悲惨な事態を悼み、その再発防止を深く決意し、将来の平穏を祈るという意味でなら、もっとも近い日本語は「祈念式典」となるのかも知れません。
ただし「2度と起こりませんように」ではなく「2度と起こしません」と誓う意味ですけれども。
それが祈りの本質だと私個人は考えています。

 「祈り」というものに対する思い入れというのは、それぞれの持つ宗教観や信仰心の厚薄にも依存するのでしょうけれども、絶対者(通常「神」と呼ばれる)の思し召しに任せるという立場の人であっても、その立場が敬虔であるほどやはりその「祈り」の奥底には誓いが潜むものではないでしょうか。無宗教の立場の人であればなおさらそうあるべきかと思います。というのは、一切の超自然的なものからの介入を信じず、人間の力だけでものごとを解決すべしという立場だからです。(筋金入りの無宗教者なら「2度と起こりませんように」と祈る対象を持たないはずですよ。)
 「2度と起こりませんように」では、その祈りを成就する主体がはっきりとしなくなります。「2度と起こしません」の主語は明らかにその言葉を発した人です。その問題にどう関わるか、取り組んで行くかという契機を生み出す言葉でもあるんです。

2001/07/14
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ICJの仮保全措置(2001/06/27

…もちろん上記の話は条約で定められた手続きを守っている/守っていないという議論のようにも見えるのですが、自国の国籍を持つ者の権利が他国で侵害されているということが判明したとき、敏感に行動するかという点に、政府の人権感覚・国民を守ろうとする意志の一端が現れるのではないでしょうか。

 うまく表現はできないんだけれども、「人権」や「民主主義」というものを徹底して守ろうとすることは、徹底して手続きや建前を守ろうとすることになるという側面があるのかも知れないという気がする。
 犯罪者だからと言って自国籍を持つ者を放っておかず、「刑の確定までは容疑者にすぎない」と言い、そのような扱いを要求する。明らかに罪を犯したのだとしても、である。明らかに不当な扱いを受けた際にそれに抗議するのはわかりやすい。でも、抗議する場合としない場合があるとすれば、その判断はいかなる根拠で行われるのか。守るべき「人権」と守らなくてもいい「人権」があるのか。いかなる人の人権も平等に守られるべきだと考えるなら、杓子定規と言われようともいかなる人の人権を守る姿勢を採る必要があるのではないだろうか、ということ。

 実は配信時点では、「国際司法裁判所」を「国際刑事裁判所」と間違えていました。これは井能@火曜日さんが掲示板でも指摘していましたが、それ以前に、読者からも指摘がありました。Webでは既に修正してあります。
 お詫びと訂正をいたします。

2001/07/08
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情報技術(2001/06/20

今の日本でも「IT化」が叫ばれているんですが、情報技術は能率の向上(量的な変化)しかもたらさないのに、導入さえすれば世の中が変革するような風潮ですが、事態は逆だと思うのです。情報技術が有効に働くように、組織だの仕組みだのを変えたところに劇的な質的変化が起こるわけです。

 単にコンピュータを導入しただけだったら、逆に手間が増えるのです。
 手間が減るようにしくみのほうを変えないとダメなわけです。
 が、急激にしくみのほうを変えると、それについていけない人も現れるわけで、それをネタにイジメることをテクハラ(テクニカル・ハラスメントの略か?)と言うそうな。

2001/06/24
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Genocide(2001/06/13

 この考察がジェノサイド条約(集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約)への結実するわけですが、手元資料で確認できる範囲では、日本はこの条約に未参加(1998年10月時点)です。

 すみません。配信時のサブジェクトが [SUN] Daily Highlights 2001/06/16 になってましたね。あれは明らかに間違いです。

 さて、そんなことはともかく。
 日本って、こういう、人道的に重要な条約に対する批准とか署名とかってスコーンと抜けてたりするんですが、これって外務省の手抜きなのか、「票にならない」とあまり意識を向けない政治屋が無能なのか、そういうとこまで政治家を監視しない有権者が不徹底なのか。

2001/06/15
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ODCCPとUNDCP(2001/06/06

 最後の記事の原文では UN Office for Drug Control and Crime Prevention の略記として UNDCP と書かれていたのですが、UNDCPは UN International Drag Control Programme(国連国際薬物統制計画)のことで、その名の通り薬物統制の問題について専門的な助言をする機関です。

 正直なところ、記事の訳出で困るのは、この手の、正式名称が確実に存在する機関名・組織名なんです。
 それと、訳出では平然とやってるように見えてますけど、病名や薬剤名というのは、ちょっとやそっとの辞書では載ってないので、結構確認に時間を食っています。
 さらに、ここもさらっと飛ばしてますけど、アフガニスタンの前国王の表記は、実は原文では"the exiled former King, Mohammad Zaher Shah"ってなってます。けれどもこの地域で"Shah"というのは国王に対する名称であったはずなので(でもほんの少し自信がない。。。)、「Mohammad Zaher アフガニスタン前国王」と訳出しました。
 記事の翻訳ってのは英語の読解力よりは、いろんな分野の知識を要求されますです。はい。

2001/06/09
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いつものこと(2001/05/30

・‥…何だろう、この後ろめたい気持ち。

 混雑した電車の中で何かが起こっても多くの人が通りすぎていくのは、人間が冷たいのではなくて、都会生活では互いにかかわり合わないことで平静を保つという面があり、人がいても互いにいないかのように振る舞うことが「いつものこと」になってるからなのだと思う。
 いつものようにいつもと同じ電車のいつもと同じドアのところに乗る。ただそれだけ。
 生活者としての当然の行動と、人間としての行動の乖離。

2001/06/05
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青き清浄の地(2001/05/23

 けれども、その「青き清浄の地」はあまりに浄化されているために、「腐界」と共存できるほどに「汚れて」しまった人間は誰一人住めないということが明らかになってきます。(作品ではそれが実は容易周到に準備された計画であり、その中心部である「墓所」をナウシカは破壊しにいきますが。。。。)

 理念と現実間に齟齬が生じているとき。
 理念のほうが現実離れをしているのか。
 それとも現実のほうが堕落しているのか。

 まあ、大抵の場合は後者なのだろうけれども、一度作られた理念を不磨の大典として守ろうとすると、いずれ矛盾が生じて、それでも守らせようとすると、最初は人を幸せにするためのものだった理念が、人を圧殺するものへと転化してしまう。。。。
 なぜなら、「生きるということは変わること」だから。

2001/05/27
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ハンセン病(2001/05/16

 個人的には、WHOでは以前からその治療方法などについて勧告していたわけで、(AIDS訴訟の時もそうですが)その時点で採られていたものの他に方法があり、当事者による改善への努力があったにも関わらず必要な措置が採られなかったことの非を問われてもしかたがないのではないかと思います。これまでの判例がどうこう、という話もあるのでしょうが、「後で『あの時なぜしなかったのだ』と糾弾されないように」なんて責任を回避するのではなく、「常に(その時点でできうる限り)国は国民のことを考え、為すべきことは為す」という姿勢を採るのだという覚悟を見せてほしいと現政権に望みます。

 控訴をしないと、政府の不作為で何らかの被害をうけた人達による裁判が増えてしまう…という危惧が政府(というか官僚)の側にあるのでしょう。もちろん、その気になればいろんな言いがかりも可能になるのかも知れません。だから私は

  • その時点で採られていたものの他に方法があること
  • 当事者による改善への努力があったにも関わらず必要な措置が採られなかったこと
という2つの条件をつけたわけです。
 過ぎ去ってしまってからなら、「あの時政府がこうしておけば私は被害に遭わなかった」と言えることなんていっぱいあると思います。問題があるとすれば、政府の側が知っているのに対処しなかったということだけでなく、「改善せよ」と言いつづける民衆からの努力も必要なのではないかと思います。そうでないと、この判決をきっかけに突然言い出したようにしか見えず、賠償金ほしさの訴訟に見えてしまい、当事者以外の賛同を得られないからです。

2001/05/20
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合衆国の落選(2001/05/09

 ブッシュ政権の外交政策については、元大統領補佐官のR.アレン氏が「ブッシュ政権の外交チームは一年半ばかり前から詳細な議論を尽くしており、大統領の意図を心得ている。」と発言している("National Security:Looking Forward";『キッシンジャーが読み解く新世界』論座6月号所収)ように、規定の路線だったのかも知れませんが、世界の各国はやはり、合衆国は急旋回したと受け取ったのではないでしょうか。

 …とは言うものの、現ブッシュ政権の外交スタッフというのは、前の(つまり親のほうの)ブッシュ政権の時の外交スタッフで固められていて、「大統領の意図を心得ている」というよりは、「大統領にブレーンの意図を心得させた」のじゃないのかな、と感じているのは私だけじゃないような気がするぞ。

2001/05/12
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people-centred development(2001/05/02

人間開発の概念とは、個人の能力を増進させ、民衆中心の開発(people-centred development)を促進する機会の増加させる必要を強調するものである。

 産業の構造変化を進める際に、その対象となる産業に属する企業に援助するのか、それともその企業に属する被雇用者のスキルアップ→転職支援を考えるのか。本当に進めなければならないのは後者だろうと思う。
 いくら組織や団体に支援したところで、実際にそこで動く人間の志や現実の技能が上がらない限り、うまく機能しないからだ。

2001/05/05
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サリバンの原則(2001/04/25

師は自らの立場からアパルトヘイトを終焉させるために働き、南アフリカ共和国内における企業の倫理規定を提唱しました。

 「サリバンの原則」の各条項を見ると、基本的に人種・肌の色の違いによる差別的処遇を改善するための内容になっているんだけれども、これはあらゆる形態の差別に関しても通用する内容と言える。今の時代からみると当たり前の内容に見えるけれども、それがあたりまえになるようにしてきた人たちの努力を、私たちは忘れてはならないと思う。

2001/04/28
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INSOMNIA(2001/04/18

 やはり人間は、自分とこの世をつなぐ絆−コスモロジーと言ってもいいですが−が必要で、それが見つからないと、生の実感をつかむために人を殺してみたり、誰かを排除することで(「アイツらとは違う」と確認することで)ようやく自分のアイデンティティを確保してしまうことになるのではないかと思います。

 ひょっとしたら、「こんなもののために生まれてきたんじゃない」と言えるのは、まだマシなのかも知れないって気もする。そんなことを考えたことすらもないなんてことも十分にありうるのだから。
 どうなのかな。私の場合、結構、この世と自分の間の違和感ってなかなか解消されないんだけれども。

2001/04/21
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お布施理論(2001/04/11

売る側の費用からだけではなく、支払う側の能力にも関係する価格体系(?)については、梅棹忠夫氏が「お布施理論」という考えを提唱しています。お経というのは(自分で創作でもしない限り)完全に規格化されたもので、誰が読んでも内容は同じであるし、しかも公知の情報です。けれども歴然と価格差が存在する。これを決めるのは読む僧侶の格と支払う檀家の格だ、というわけです。

 配信記事だけを読んでいると、製薬会社が薬品の価格を下げたことしか書かれていなくて、ともすると国連からの呼びかけに対し、人道的見地だけからそれに応じたようにも見えるのですが、現実はそうじゃないだろうと思うのです。もちろん、そのような配慮はかなりあったとは思うのですが、莫大な費用をかけて開発した薬品をおいそれと安価に販売すると企業活動やそれに基づく基礎研究がなされなくなるわけで、かなり実利的な判断がなされただろうと思うのです。
 私はその姿勢を批判しようとは思っていなくて、世の中を動かそうとすれば、美しい理念だけを相手に押しつける−ここでいえば、多くの人を救うために薬品を安価で販売すること−だけでなく、仮にそのような販売行動に出ても、他の要素でそれをカバーする算段を準備し、説得することが必要です。誰もがそれぞれの立場を守りながら全体としてうまく落ちつかせる方途を模索する(ありていに言えばビジネスの要素ですら採りこみ実現する)という取り組みが背後にあったのではと想像します。
 例えば、最近、「マイクロファイナンス」という手法が途上国で採られたりします。これは、銀行が事業を大々的に実施しようとする企業に出資するのではなく、そのへんのオバチャングループに貸すということです。これにより、これまで稼ぎたくても元手がなかった人々が小さい店を始めたり、自転車を買ってちょっとした運送屋を始めたりで、生活環境の向上に役立ってるというのです。じゃあ、この銀行は慈善でやってるかというとそんなことはなく、きちんとビジネスとして成立させている。取り立てはそれなりにシビアだし、借り手の相互監視システムに組みこんだりして(オバチャン個人には貸さず、グループでないと貸さないことに注意)、なかなかうまくやってる。それをあくどいと見ることもできるけど、仮にそのシステムがないと、その銀行よりも法外に高い金利で資金を借りねばならず、その支払に苦しめられる。じゃあ、どちらかがより建設的な解決かということ。
 理想を語る、呼びかけるのは大事なことなんだけれども、それが広く人間の中に定着していくには、それなりの現実性、露骨に言えば実利性(ただし相互に利益があるような)を持ったものでなくては長続きしないと思います。

読者の反応 件数 概要 コメント
1件 ガーナ在住の方から「世界人口的にみれば,「定価」で売買している人口は圧倒的に少数派」ではないかとのご指摘。 いやあ、実にごもっともでございます。
2001/04/14
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『動物農場』(2001/04/04

 もちろんこれはソ連の歴史の批判・パロディなのですが、この寓話はロシア革命を戯画化したものだけにとどまらず、すべての革命の堕落過程をえぐり出していると言えるでしょう。

 指導者層が「豚」であり、その手先が「犬」であるのは、動物の世界の話であるにしても、実にキツイ皮肉だなぁ。
 それはともかく。
 『動物農場』の中では、最初は豚もまともなこと言ってて、農場全体も、人間に飼われてたときよりも少しは裕福だった(搾取する者がいなくなったので食糧が増加した)のに、だんだんうまくいかなくなる。それを、追放した豚のせいにする。このあたりの言い訳のしかたは、同じくオーウェルの『1984年』を読んでいるか、もしくはレーニン死後のソ連の歴史(特にスターリンとトロツキーの確執と、トロッキーの追放あたり)が頭に入っていればなかなか面白く読める。
 で、最後に豚は2本足で立つようになり、最初に追い出したはずの人間そっくりの容貌になり、「もう、どちらがどちらか、見分けがつかなくな」る。つまり、豚が人間になる…のだけれど、実はもともと人間の方が「豚」みたいなもの、なのかも。

読者の反応 件数 概要 コメント
1件 私の文章には「ポツポツと語られる文章に 爽やかな庶民的な感覚を感じる」のだそうです。 だって庶民だもん。
2001/04/04
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…についての一言(2001/03/28

 …というわけで、SUNの質的向上のためにもお気軽にメールくださいってことでした。ではではよろしく。

 とは言うものの、ここをご覧の方は既に「今日の二言め」の存在をご存知のはずで。
 でも、読者の反応をどう吸い上げ、フィードバックするかって、ずっと頭を悩ましてるんです、実際。

2001/03/24
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地に呪われたる者(2001/03/21

“追いつけという口実のもとに人間をせきたててはならない、人間を自分自身から、自分の内心から引きはなし、人間を破壊し、これを殺してはならない。”

 引用するのをこの箇所にしようかどうしようか迷った箇所にこういう文章があります。

“ひとつの橋の建設がもしそこに働く人びとの意識を豊かにしないものならば、橋は建設されぬがよい、市民は従前どおり、泳ぐか渡し舟に乗るかして、川を渡っていればよい。橋は空から降って涌くものであってはならない。社会の全景にデウス・エクス・マキーナ〔救いの神〕によって押しつけられるものであってはならない。そうではなくて、市民の筋肉と頭脳から生まれるべきものだ。”
“市民は橋をわがものにせねばならない。このときはじめて、いっさいが可能になるのである。”
 非植民地であった地域が、「先進国」の技術や援助にのみ依存して「近代化」したとしても、それがその地に根をはったものとならない限りは、結局、「先進国」に依存しなければ生きていけないという従属構造がさらに強化されてしまうという問題が潜んでいます。

読者の反応 件数 概要 コメント
1件 「これは言葉ではその通りなのですが、現実においては、その善悪はなかなか判断しにくい」のでは? とのこと。 実はご指摘の通りで、とても「一言」では書ききれない。本当はこういうテーマでじっくり論考を重ねて[SUN SE](Special Edition)等で書くべきかも。
2001/03/24
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神々は渇く(2001/03/14

マキャベリは『君主論』の中で「1度変革があると次の変革のために歯型を残す」と書いているのですが、この原理が再帰的に作用して内部崩壊に向かう、ということです。

 『君主論』自体はメディチ家のために書かれたものなので、「1度変革があると次の変革のために歯型を残す」から、主権が連綿と続くようにせよ(そうすれば人民は革命の記憶も原因もなくなるから)というのが彼の議論の展開。つまり、事実としての支配を継続せよってこと。
 一方、革命の理念への(過度の)忠誠という自動機械が動き出すと、もはや、それに属する者を次から次へとふるいにかけ、殺ぎ落としていく。その運動を途中で止めようとすることは現実との妥協、日和った行動だと指摘される危険を常に帯びる。だから常に純度を保とうとすると、「不純物」を除去しつづけるしかない。

読者の反応 件数 概要 コメント
1件 「一言お礼を言わずにはおれない気迫を感じましたので。」とのこと。 淡々と書いているつもりなのですが、それなりの濃度を持ってしまってるということでしょうか。
2001/03/18
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おせっかい?(2001/03/07

しかし、結婚って束縛するもの、なんですかね。
私は独身なのでよくわかりませんが。f(@@;)

 ここをごらんの皆さんは、たぶん表紙をごらんになっているので、私が30代前半だとご存知だと思うのですが、読者の中にはそれなりに年を食っている人間だと思っておられる方がおられました。1度、60代の方に「“今日の一言”の内容から同年代かと思いました」というメールをいただいたことがあります。
 ものの基本的な感じ方や考え方は10年くらい変わってないように思うので、すでに20代前半で、60代の感覚を備えてたってことですか。ふむむ。知能指数を計算すると精神年齢÷生活年齢×100で300弱ってことですか。いや、まあ、そんなことはどうでもよくって。

 私自身は結婚に対する強い願望ってのはなくって、まあ、「したくない」というわけではないけれども、結婚しないことがマイナスだとは思わないという感じでしょうか。
 特定の女性とお付き合いしているわけではないので、ただただ「早く結婚しろ」とか「早く相手を見つけて来い」って言われても、なんかね、とってもその背後にある感覚がヤなのです。それって、結婚相手を「物色してこい」もしくは「漁ってこい」としか聞こえない。だって、単純化すれば自分の欲望のためにその対象となる相手を確保せよということですから。

 まず「結婚しなければならない」という至上命題(!)があって、それに従うことが無条件に要求されるのってよくわからないんです、正直なところ。私は「結婚してもいいし、しなくてもいい」という程度にしか考えてないので。「結婚しないのか?」って聞かれたら、大抵は「相手がいませんから」って答えるんですけど、そういうと「相手を探しにいけ」なんてよく言われます。んーー。「月に行きたいか?」と聞かれたら「行きたいですね」とは答えますけど、「じゃあ、なぜNASAへ行けるように努力しないんだ」って言われてるのと同じような気分です。

 幸福になるかどうかが問題であって、結婚はそのための手段でしかないのに、そういう前提が全てぶっとんで結婚することがまず命題になるというのは、話の順序がめちゃくちゃなんですよ。
 本気で結婚させたいのなら、私の心が動くような人を紹介するってのが最も有効な方法なのに、妙に言葉で説得しようとするから、かえって反論してつぶすことになるってのを、学習してほしいなぁ…ってこんなところで親戚への悪口を書いてもしかたないんですけど。

 え? それとも、そこのあなた。私を説得してみますか? 

2001/03/11
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原理主義の構造(2001/02/28

 人が「野蛮」になるのは自暴自棄になったとき、ではなくて、自分が何であるかを強烈に意識したときなのかも知れません。そしてそれにはそぐわないもの、敵対するものを駆逐することで自分の属する世界を「浄化」しようとしてしまう。

 自分を正しいと考えることは間違いじゃない。
 でも、相手も同じことを考えるということに想像力が働かないと、この世界は「正義」どうしがぶつかり合う世界になってしまう。だからといって、「正義」を唱えてはならないということではない。複数の「正義」が存立し、尊重しあえる部分と、違いを違いとして尊重する部分を互いに洗い出していくことで理解を深め合っていかないと、ほんとにこの星はヤバくなってしまう。

読者の反応 件数 概要 コメント
1件 「原理主義」についてよくわかりました、とのこと。 確かに、日本人にはわかりにくいかも。
(ってそういう私も日本人。)

2001/03/06
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「独立せよ…」(2001/02/21

 それが神であれ、国家であれ、組織であれ、1人の人間が“人間を超えるもの”の存在を感じ、その命令に従うという行動から解放されない限り、人類は「原理主義」から逃れられないし、そこから派生する悲劇からも逃れられないのではないでしょうか。

 人を排除する行動の奥底には、人を人と思わない感情が見え隠れする。少なくとも、人を道具と見なす思想が見え隠れする。20世紀の恐さは、人々を「サイクロトロン」にかけ、粉々に分離し、一挙に絡めとるところにあった。21世紀になったからと言って、その特性が無くなったわけではない。

2001/02/27
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守るべきもの(2001/02/14

おそらく人間が最も強くなれるのは守るべきものを守るときであって、逆にそのような時に守らない姿勢を採れば、回復しようがないほど信頼を損ねてしまいます。

 今回の「今日の一言」には、

国に国民を守る意志がないことが露呈したのであれば、国民は国を倒してもかまわない。なぜならそのための代議制度であり、権限委譲を選挙を通じて行っているからです。
などと、少々、過激なことを書いてしまいましたね。が、この自覚は当の森首相だけでなく、それを国会で追及している野党の側にもないように見えます。(辞めさせない与党はさらに輪をかけて自覚がないとしか言いようがない。)

 内戦が起こっている国では、互いの「守るべきもの」同士の衝突が起きているとも言えるのですが、日本では、「守るべきもの」そのものが溶解して見えなくなってしまってるんです、きっと。
 <守るべきもの>を持たないことは、確かに行動の「自由」をもたらすけれど行動の動機をも持たないことになるし、<守るべきもの>を持つことによって責任が発生する。深い責任感は智慧をもたらす。それが作動しない。
 特に多くの人を率いる必要のある立場にある人には、自分が何を守らねばならないかを十分自覚してほしいものです。そうでないなら、その人を更迭するか、その人の元から去るべきです。自分のために。

読者の反応 件数 概要 コメント
2件 「参考になりました」とだけ書いた方と、「森首相の非難はまったく正当だと思いますが、ではどうしたらいいのかをみんなで考える、ていねいな議論がもっとあっていいはずと感じています。」という方と。 そう。「大家ぶった批判なら誰だってできる」(J.J.ルソー;『エミール』)のであって、じゃあどうするんだって考える、「与党精神」ってのが、必要なんだ。
2001/02/19
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苦しむようにつくられていない者(2001/02/07

“「人間とはなにか」という問いに対し、人道援助の哲学は、「苦しむようにつくられていない者」とだけ答えます。人道援助の諸原理は、苦悩の深さを歴史や政治の尺度にあわせて考えることを禁じるのです。”

 「人を救う」という行為は人道的な行為であることには間違いないのだけれども、それが紛争の現場であったとすれば、「敵」の兵士を救っている連中はやはり敵なのだと心情的に理解して敵視されてしまう危険性が伴います。もちろん国際法上は戦場で負傷した兵士を治療することは利敵行為でもなんでもないんですが、紛争の現場では「政治的な行為」と映ってしまう危険性があります。
 また、今回のインドのように、その社会の(いい意味でも悪い意味でも)伝統が生活に深く根ざしている場合、それを無視して援助活動に入っても、当の援助したいと思っている相手からの反感を買ってしまうこともあります。

 私は「救済」という言葉に違和感を持っていることを説明しており、そこで、「飢えた人にパンを与えることが救うことなのか?」という疑問を持っています。これが成り立つのは、「救済」される側に、まだ、「じゃあ、がんばってみよう」と思う余地がある場合なんですね。どうしたらいいかわからない、今回のように突然の大地震で一挙に家族も生活も崩壊してしまった場合、「これからどうしよう」ということすら考えることができない−余裕がないというのではなくて、もう、頭の中が真っ白になって、そういうことを考えるということすら思いつかない−状態にまでなってしまっている人には、やはり、パンを与えるしかないというのも事実です。

 毒矢が刺さっている人には、まず毒矢を抜き傷を癒すことが必要なことで、その矢が何でできているのかとか、なぜ刺さったのかとかは、その後に明らかにすればよいことです。

2001/02/11
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冬はつとめて、だけれども(2001/01/31

冬はつとめて
雪の降りたるはいふべきにもあらず 霜のいとしろきも

 霜、というと、次の和歌を思い出します。

居明かして 君をば待たむ ぬばたまの わが黒髪に 霜は降れども  (万葉集 2-89)
 「ぬばたまの」は黒髪にかかる枕詞で、全体としては、「夜を徹して、ずっとずっとあなたのことを待っています、私のこの黒い髪に霜が降っているけれども」というような意味です。まあ、もちろん、本当に霜が降るまで待ってたら凍えてしまうはずですが、それほどずっと、そしてじっとここで愛しいあなたを待っていますっていうロマンチックな(でも待ち人が来ないという、JRのCMで流れたクリスマスソングみたいな)状況を詠んだ歌です。
 さだまさしも、この和歌を踏まえて「例えば 君は待つと 黒髪に霜の降るまで」って歌ってました。題名はなんだったかな。「馬酔木」とかいったような気がする。
 …って書いたら、それは「まほろば」じゃないかと読者からのご指摘。確かにそうでした。いやあ、書いてみるもんですね。
 というわけで、Special ThanX です。>teruteru さま、Kazuyukiさま。
 このあたりの詳しいやりとりは掲示板を。
 …っということで、私はこの時期、霜を見ると、「待ち人」っていう連想をしてしまいます。

2001/02/03
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ややこしい地名(2001/01/24

「コンゴ」ばかり出てきてややこしいですが、(中略)
「ユーゴ」も実に微妙で、(後略)

 「コンゴ」「ユーゴ」「マケドニア」以外では、ミャンマー(旧ビルマ)が国名を変更しています。旧ビルマを「ミャンマー」と呼ぶか否かについては、現在の軍事政権を正当とみなすか否かという微妙な政治的な問題もからむのですが、一応、日本語として流通していることをもって「ミャンマー」を訳語として採用しています。
 私の手もとの、高校で地理を習っていたときの地図帳と今のを見比べると、ソ連が解体してできた多数の共和国を除いても、結構、変動があります。いつのまにか(とは失礼なんですが)アラビア半島のイエメン・アラブ共和国とイエメン民主人民共和国が合併して現在では「イエメン共和国」になっていますし、エリトリアもエチオピアから独立しています。当然(!)ドイツもドイツ連邦共和国(西ドイツ)はドイツ民主共和国(東ドイツ)を吸収しました。
 いま、「合併した」とは言わず、「吸収した」という言い方をしたのには理由があります。これは、ドイツ連邦共和国の憲法にあたる連邦基本法に、連邦への加盟の方法・手続きに関する条文があって、ドイツ民主共和国の各州が個別に加盟する(!)という方法で「統一」を果たしました。連邦基本法にこの条文を設定した時に、東西ドイツが統一するなんて誰も思っていなかったとは思いますが、実に先見の明があったということになります。

2001/01/26
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波乱の続くコンゴ民主共和国(2001/01/17

カビラ大統領の死によって力関係がどのように変わるのか、全く情勢は混沌として います。

 今回は解説的なものだったのだけれども、本当はね、こういう、後ろで調べていることっていっぱいあるわけよ。地名が出てきたら地図帳を開いたり、Microsoft Encarta の世界地図で検索したり。大抵の地名は日本には馴染みが薄いので、地図を見て、本文にはない記述を足したりすることもある。
 各地で起こっていることも、その背景を知らないと、日本語にはできるけど文章にしにくい記事ってのもあるわけ。そこで今回、コンゴ民主共和国について、いろいろ調べてみたことをダイジェストして「今日の一言」にしてみたんだけれども、実はその途中で妙なことを発見した。

 知ってる人は知ってるだろうけど、地域研究ではわりとよく知られている、各地域別の網羅的な事典が平凡社から出版されていて、今回の「今日の一言」でとっても参考になった『アフリカを知る事典』(新訂増補版第1刷)のコンゴ民主共和国に関する記述なんだけれども。亡くなったカビラ大統領に関する記述が少ない(ない?)のは、まあ、執筆時期の関係も許せる範囲だとしても、モブツ前大統領がクーデターを起こした時点の役職(クーデター起こした時は「大統領」じゃないだろう、というツッコミはなしね)が、記述されている項目によって違うのだ!!

「コンゴ動乱」の項目…「陸軍参謀長モブツ大佐」
「ザイール」の項目……「軍最高司令官モブツ中将」
「モブツ」の項目………「軍参謀総長」
 まさか、兼任してたとか?

カビラって言われると、あの「いぃ〜んですか」「いいんです」の川平慈英を思い浮かべる私は変?

2001/01/20
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エネルギーを使えるようにするためのエネルギー(2001/01/10

ともすると「環境に優しい」とされるエネルギー源からエネルギーを取り出し、実用に耐えるようにするのにもエネルギーが必要だという観点が忘れられがちだからです。

 ある部分だけ切り出したら状況が改善されるように見えても、その調達・利用・廃棄までトータルで考えたときに本当にメリットが出るのかっていうのは、特に環境を相手にするときは可能な限り考え尽くさねばならないのです。
 例えば排出する二酸化炭素の量は、発電の時だけを考えたら原子力がけた違いに優秀です。だって具体的にモノを燃やしませんもの。本当に数値の桁が違うんです。でも、原料のウランの採掘・精製・運搬・廃棄まで考えたらどうなりますかねぇ。(この数値は発表する機関が原子力に対して肯定的か否定的かでかなり違う。)

読者の反応 件数 概要 コメント
1件 具体的な数値がわかるなら教えて欲しいとの要望あり。 要するにLCA(Life Cycle Assesment)の問題なんですね。会社に行ったら資料がありますので、確認してお返事したいと思います。
2001/01/14
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「希望の21世紀」(2001/01/03

 「希望の21世紀」になるかどうかと思いあぐんでいるうちは、決して「希望の21世紀」にはならなくて、「希望の21世紀」にすると決めた人たちが本当に「希望の21世紀」にしてしまうものではないかと思うわけです。

 これは、発想としてはThink Different (2000/08/09)につらなるものです。

 私が思うには、「希望」というのは、何も悩むことのない、ノーテンキな状態などではなくて、いろんなやっかいなこと、めんどうくさいこと、不条理なことがある現実を踏まえた上で、それでも抱くもの。
 おめでたいだけの人には決して「希望の21世紀」は来ないと思います。

読者の反応 件数 概要 コメント
2件 「がんばります!」って決意された方と、「素直に“希望の世紀”と考えたほうがよいのでは?」という方と。 ちょっと書き方がよくなかったのでしょうかね。ただ、私の認識としては、手放しの楽観視はできないと思ってるもので。。。
2001/01/04
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Updated : 2005/08/22