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Title : Complimentary 2000

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2003年 / 2002年 / 2001年 / 2000年

世界の残酷さに抵抗すること(on 2000/12/20

“我々は、分かつもの、解体するもの、遠ざけるものに対して、たとえ自分が負けるとわかっていても、抵抗しなければならない。 ”

“世界の残酷さに抵抗するということは、分離の中での結合を維持しようと試みること、自由なものを自由にさせておきながら結びつけようと試みること、許しを与えながら改悛を喚起しようと試みることでなければならない。 ”

“人間にあって、世界の残酷さに対する抵抗という形をとる、果てしない絶望的な努力の継続、これこそ、私が希望と呼びたいものなのだ。 ”

 20世紀中にもう一度水曜日がやってくるんですが、職場のメールアドレスでお読みの読者もおられるようなので、人によっては今世紀最後の私の「今日の一言」になるんだろうなぁと思いながら、この世紀が何であり、次の世紀がどうあればいいのかを考えるようなことがあるなら、その思索の糧にしてほしくて書いた文章です。まあ、ここだけの話、12月に入ってからの「一言」はそれを意識してるんですけどね。

 引用している箇所にはそれぞれキーワードがありまして。
 1つは、「つなげる」こと。
 1つは、「赦す」こと。
 最後に、「希望をもつ」こと。

 21世紀に是非とも持っていってほしいものたちです。

2000/12/18

「許そう、しかし忘れてはならない。」 (on 2000/12/13

マンデラ大統領(当時)が優先したのは国民の和解でした。その時マンデラ氏はこう言いました。
「許そう、しかし忘れてはならない。」
と。

 参考文献に挙げてある、E.モランの著作については、もし興味があったら『E.モラン自伝』(E.モラン;法政大学出版局)を読んでみてください。ただし、ちょっと高い本ですけど。

 被害者側が加害者側を許すということがどういうことなのか、かなり考えさせられます。単に加害者を追い詰め、責任を追及し、弾劾し、復讐を果たすことは、実は、その最初の野蛮な行為と同じ感情レベルに陥ってしまい、必ずしも平和をもたらさないということがあるからです。加害者に反省させること、2度とこのようなことが起こらないようにすること、憎悪の連鎖を断ち切ることを、モランは主張しています。
 もちろん、この論理は、これから起こる暴力を止める力は持ち得ません。
 しかし、現実に起きてしまった暴力への対処として、暴力を用いてしまっては、新たな加害者/被害者を生むだけなのです。

2000/12/18

ユージーのいらだち(on 2000/12/06

 自分が自分であるために、誰かを排除しようとすることを望むこと−「あいつがいるから私はこんな目に遭うのだ」と考えてしまうこと−は、ある程度本能的なものなのかも知れません。けれども、その成就のために本当に物理的に「排除」してしまった時に残る自分は、果たして望んだとおりになれるのかは甚だ疑問です。

 まあ、萩尾望都の話を持ってきたからといって、私が日頃からいわゆる少女マンガを読んでいるというわけではありません。別の本を読んでいて、この話に触れている箇所にいきあたったので買って読んでみたという次第です。

 驚いたことに、この『半神』と全く同じ話が、今年、イギリスで起こりました。
 そのままでは2人とも死んでしまう結合双生児の分離に関して、病院側が裁判所に判断を委ね、生命の危険がある生後六週の結合双生児の両親に対し、一人の命を救うために、もう一人の命を絶つ分離手術を医師団に認める決定を下したそうです。
 これに対し親御さんは「親として2人とも平等に愛しており、1人を救うために、もう1人の命を犠牲にするのは耐えられない。たとえ2人とも死ぬとしても、それが神の意思なら従う」と言っておられるようです。
(結局どうなったのか、続報は日本では報道されてないように思います。)

 やはり一人が死ぬことを前提に1人を生かす(ことを是認する)というのは、どこか「生きるべき生命」と「死すべき生命」の判断を行う、傲慢な態度だと思います。

2000/12/09

道(on 2000/11/29

“思うに希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えない。
それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。
歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。”
(魯迅 『故郷』)

 文中の「希望」を「平和」と読み換えることができるでしょう。平和を望み、かつその実現のために行動する人が増えていくその状況そのものが平和であると。

2000/12/01
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今日の愚痴(on 2000/11/22

 公衆衛生整備にはお金の問題とか、整備地域の拡大と処理場の処理能力拡大のバランスとか、いろいろ問題もあるんですが、この手のイヤらしい話が動いているのも事実です。

 まあ、本心で愚痴を言ったつもりなんですが、ある読者から
決して愚痴とは思いません。
日本中の田舎っぽいところに住んでいる者の、最近の悩みです。
と諭されてしまいました。(あ。ごめんなさい。勝手に転載しちゃいました。…って、メールを戴いた方ってここをご覧になってます?)

 SUNの記事で書かれている内容はもっと深刻で、下水道を初め、いろんな公衆衛生設備&制度が整っていないために、罹らなくてもよい病気に罹り、悪化して死に至る−しかも抵抗力の小さい子どもが多く犠牲になっている−ということを指しています。
 日本で愚痴っててもいけませんね。

2000/11/25
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「風のほうをなんとかやってみましょう。」(on 2000/11/15

 11月15日は坂本竜馬の誕生日でもあり、命日もありました。

 竜馬が土佐藩を脱藩したのは27歳半ば。ちょっと計算してみると、だいたい、生まれてから1万日目。…ってなことに気づいた時に、自分がその時、生まれて何日目だったかを計算してみると9980日目あたりだった。きちんと計算してみると、私が生まれて1万日目を迎えるのは1993年12月14日。というわけで、その日の朝は、高知県は桂浜に行きました。冬の海なので、人気はなく、ちょっと冷たい風が吹いていました。あ、そういえば女性の二人連れが近づいてきてカメラのシャッターを押してくれって言われたな。彼女達はどうしてるんだろうか。まあ、桂浜って、本当に、竜馬像と記念館くらいしかないのでそれを見にきたんだろうとは思うけど。
 やっぱりねぇ、奈良県という海のないところに生まれ育った人間にとっては、海岸というのは不思議な場所なのだぁ。仮に私が幕末に生まれてて志士になっていたとしても、「海援隊」という発想には絶対にたどり着けなかっただろうなぁ。

 ちなみに今日(11月18日)は生まれてから12,531日目。

2000/11/18
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「匿名」の世紀(on 2000/11/08

 少々、大げさな表現を許していただけるなら、この匿名性がこの世紀の1つの特徴だったのではないかという気がしています。人間が一個の存在としてではなく、多数を構成する1つの「粒」としてしか扱われなくなった状態が極限まで強化された世紀だったのではないか、と。
 来たるべき「人間主義」はこの「匿名性」とは対極にあるものだと思います。

 テーマとしては、前回の「悼む気持ち」よりも前々回の『いちご白書』につらなると思います。
 よくマルクスの主著って『資本論』とか『共産党宣言』とか言われますけど、それって、後の世代の共産党な方々がそう思いたがったからじゃないかなぁという気がします。『経済学・哲学草稿』で出てくる「類的存在からの疎外」という概念。これって平たく言えば、「貧しくともみんな肩を寄せ合って生きるのと、抜け駆けを許しても誰かが豊かになれるのとどっちがいいのだ?」という問いかけに、前者のほうがよいという彼の結論。しかし現実の資本主義社会は後者を選んでいる。

 もちろんねぇ、共産主義のほうがいいゾなんてここで言いたいいんじゃないですよ。
 でも、マルクスが最初に持ったであろう問題意識−苦悩に喘ぐ労働者をどうやって救うのか−は、たぶん、今も解決されてないんじゃないかな。

2000/11/13
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悼む気持ち(on 2000/11/01

 正直なところ、私の心の中では悲しみよりも驚きのほうが勝っています。そしてそういう自分の心の動きに少々愕然としています。
 身近な人が亡くなったはずなのに…いや、身近だと本心では思っていなかったのか…それとも、もはや人の死に慣れてしまったのか……。

 それぞれの人の訃報を耳にしたときに抱いた感情は、ずっと飼っていた犬が死んでしまったときに感じたものとは明らかに違う…というのが正直な感覚なんです。社会生活上「身近」であることと、生活を共にするというレベルのでの身近さは違うものだという説明は可能であっても、それにしても、もっと悲しくなったっていいような気がするのに、ほとんど心が動かない。
 この先、誰が死んでも、「ああ、死んだのか。」としか感じないのかも。。。

2000/11/04
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『いちご白書』(on 2000/10/25

 次に来る全体主義は軍服なんて着ていないでしょう。おそらく、現在に蔓延する孤立感を埋めていく、"Friendly" で「癒し」の側面をもったものでしょう。

 "Friendly" という言い方をしたのは、上記で書いたような指摘は既になされていて、それを"Friendly Fascism"(「微笑のファシズム」と訳されることが多い)と言うことを踏まえています。まあ、厳密にはファシズムと全体主義とは違うって言えば違うんですが。
 現代社会の内包する、人間を「分子化」する機能−ル・ボンあたりは「サイクロトロン」と言うだろうし、マルクスだと「類的存在からの疎外」というだろう−が動き、コミュニティを破壊し、行きすぎた個人主義が蔓延したとき、つまり、人間1人1人が砂粒のように、互いに連携しないような状態(群集)になったとき、最もその行動を操りやすくなります。

 生物学では群叢(ぐんそう;association)という言葉があります。魚とかが、より大きな魚たちに襲われにくいように、塊になって動き、生活する性質・状態を言います。人間もどこかこの性質を持っているのではないかと、個人的には思います。心情的な意味ではなく、現実的な意味で、人間は1人では生きていけないという意味です。何らかの association を必要とします。けれども、現代社会はそれを破壊し、別の人工的な association を提供する。それが企業であったり、国家であったりする。でも、そういうものを拒否する人たちが association なしに生きられるかというと、そうでもないでしょう。そういう覚悟がない、というべきかも知れません。
 ヒトラーが当時のドイツ国民の心を捉えたのは、当時のドイツ国民はヒトラーに騙されるほどバカだったわけではありません。極めて巧妙であったけれども、彼の言葉には、ドイツ人の誇りを刺激する要素があったからです。心の襞を埋めて行く、甘美な言葉がばらばらになった群集を束ねて行く…その構造は、今でも有効であるように思います。
 私はこの意味で、非常に最近の世界の状況を不安に感じています。

2000/10/29
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Proactive(on 2000/10/18

 英語で"pro-"と言えば「〜に賛成の」という意味になることがありますが、ここでは上に書いたような意味、「前もって」とか「予め」とかいう意味になります。ただし単に「時間的に早く」なのではなく、「予測される困難な事態に予め備えて対処する」というようなニュアンスを持つ言葉です。

 この言葉を知ったのは5年前の阪神淡路大地震の直後のこと。
 広く言えばリスク管理の文脈で使われているのを読んだわけです。

 「不測の事態」と言う言葉がありますが、これは文字通りですと、「考えたことのない(けれども起ってしまった)出来事」で、本当に起ってしまった場合は、その場で考えるしかない。だって「不測」なんだから仕方がない。問題は、その「不測」を平常時にどこまで減らしておけるか、それでも起ってしまった際にどのように対処すべきかを考える道筋をどれだけ用意できるかにかかってる…ってなことを、震災の3日あとくらいにはまとめてあって、その半年後、さる関西を基盤にする財団法人が発行する機関誌に寄稿した。(じつは初めて原稿料というのをこれで受け取った。)

2000/10/22
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Share(on 2000/10/11

 "Share"には「分配する」と「共有する」の2つの意味があります。
 エルサレムは、今、各宗派・各民族に「分配」され、分断されているわけですが、「分ける」ことと「共有する」ことの微妙な共通性−"Share"の発想を転換することが1つの切り口になるかも知れません。

 例えば1つしかないものを、2人が欲しがった時、2つに割ってそれぞれ与えたとしたら、それは、「分けた」のでしょうか? 「共有した」のでしょうか?
 「分けた」と思っているうちは、「本当はあの半分も自分のものになるはずだったのに」という気持ちがどこかに残るでしょう。逆に「共有した」と思えるなら、気持ちは全部自分のもので、たまたま相手に管理してもらってるんだと考えられないこともない。

 正直に言いますとね、エルサレムとその土地を欲しがる人々ごと「消去」しちゃえば問題は「解決」するじゃないか、なんて悪魔的なささやきが脳の奥を駆け巡ることもなくはないです。でも、当然ながらそういう選択肢を敢えてはずした上で解決策を考えるなら、誰のものにもしないか、みんなのものにするかだと思うのです。

2000/10/16
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ユーゴスラビア大統領選挙(on 2000/10/04

 独裁的な政治指導者が、自らへの指示を過信したままで選挙を行った場合、民衆の賢さが最終的に勝利するという例を20世紀の最後に見せてくれたユーゴ国民を賛嘆したいと思います。

 独裁者が選挙するっていうのは、それなりの勝算があるから。
 たぶん、ミロシェビッチだって、選挙を始めたときは、絶対自分が勝つ算段ではじめたはずだ。仮にヤバイ状況になっても、あの手この手で勝ってしまうようにするつもりだったんだろう。けど、民衆は彼の思っている以上に彼から離れていた。何しろ過去13年間に4回も戦争をし、そのたびに旧ユーゴスラビア共和国は分裂していってる…。
 正直なところ、対立候補だったコシュトニッツァの力量というのは判断がつかない。ひょっとしたら大化けするような政治家かも知れないし、思ったほどには有能でないかも知れない。でも、これまでの劣悪な指導者を自らの手で(しかもほとんど流血なしに)追い出した、ユーゴの民衆の衆知は称えたい。

 そうそう、それから、ここでの言いまわしに気づいてるかなあ。「有権者」じゃなくて、「民衆」って言い方してることに。実は、表立っては言ってないんですけど、SUNの翻訳記事ではね、"people"っていう単語は「民衆」って訳すことに申し合わせてるんです。通常、外交文書とかで"people"っていう言葉が出てくれば、「人民」って訳されてしまうことが多い。例えば、国連憲章の冒頭部分、"We, the people of the United Nations"は、「我ら連合国の人民は」でしょ?
 でもね、なんか違う。「人民」というと、ちょっとサヨクなにおいがするのと、なんていうか、まず国家があって、その庇護の下にある人々という感じがする。それは、SUNスタッフの描く people ではない。国家なんてものがあろうがなかろうが、厳然と生きぬく、逞しい人々。そういうニュアンスを持たせたい…ってな気持ちで「民衆」と訳してます。たぶん、ここ半年くらいの訳はそれで統一されてると思いますよ。

2000/10/09
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洪水(on 2000/09/27

 こういう話を読むにつれ、やはりアジアは昔から洪水に悩まされつづけてきた土地なのだなという気がします。ひょっとしたら洪水−すくなくとも雨と良くも悪くも戦い続けることがアジアに住む者の宿業なのかもしれません。

 やっぱりなんだか、最近の地球の気象はおかしいと思う。
 もちろん先日起った名古屋地域の洪水のこともあるんだけれど、今年も世界各地で洪水の被害を耳にする。そうかと思うと、アフリカでは旱魃の被害をよく耳にする。
 自然災害というのは防ぎようがない。防いでみようとしたところで、たいてい、自然のほうが人間の思惑を遥かに上回る。起った後の対処が問題なのだ。

2000/09/30
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暴力(on 2000/09/20

 つまり、ガルトゥングは「暴力」の問題が目に見える物理的な振るまいにだけ存在するのではなく、言わば人を苦しめるものはすべて「暴力」とみなすべきではないかという提言でもあるわけです。

 ガルトゥングの暴力に関する理論は、「平和とは暴力の不在を意味する」という主張をとりあえず認めた上で、その「暴力」の概念規定を行うことから始めています。つまり、「暴力」という形で平和を論じようとしています。これはある意味で、「平和」というものを肯定的な表現で概念を説明しにくいという逆説的な状況を示しています。例えば「幸福」とか「歓喜」とか、肯定的な概念を、「…とは何か?」と問いかけた瞬間に、とたんに答えに窮してしまい、「〜でもなく、…でもない状態」となってしまうこととよく似ています。ここに平和論の現時点でのある種の限界が現れているように思うのです。世間にはいろんな平和活動があるのになかなか功を奏さないのはなぜかと考えるに、それぞれの活動の「平和」のイメージのすりあわせがなされていないために、結局、平和運動が、「○○に反対する!」という形でしかまとまらないわけで、そのために、そういう「平和を乱す」勢力のアクションがあって初めてそれに反対するという、従属的な活動に終始すると言う構造に陥ってしまっているからです。

 また、「非暴力」に関しては、私のページの中では、ガンディーの『私の非暴力』でも触れられています。

2000/09/27
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姥捨山問題 (on 2000/09/13

漁船は沈没寸前で、7名ともをヘリに乗せないと彼らの命が危ないという状況。
ところが救助ヘリの定員は11名で既に救助要員として6名乗っていて、このままでは2人乗れません。
その時、主人公の潜水降下士がもう1人の降下士にこう言います。
 「オレ達が乗らなきゃ… 11人だ…」
 …倫理学で言う、「救命ボートの倫理」の典型的な例です。

 主張の正しさは必ずしも人を救わない。
 美しい言葉はそれを聞いた人を酔わせるけれども、その行為が向けられるべき人にまではそう簡単には届かない。
 こういう問題を素通りできる図太い神経の持ち主をうらやましく思ったりすることも。

2000/09/15
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ほくろの数 (on 2000/09/06

 観測という行為自体が観測対象を変化させるということもあるわけですが、
今回の一連の騒ぎは、観測しようという意図が観測する目を鋭くさせてしまって、
当初の想定よりも遥かに多い対象を発見してしまうという構造から発生したものだと思います。

 観測しようとする行為自体が、その観測対象の振る舞いに影響を与えてしまい、本当に観察したい状況を観察できないというジレンマは、量子力学の世界で顕著に表れます。量子(りょうし。「りょうこ」じゃないよ。)の世界のように極めて微少な規模の世界では、「観測」とは何かという哲学的な議論が展開されることになるわけです。「観測」というと、基本的には「見る」必要があるんですけど、「見る」ためには光を当てなきゃいけない。でも、光を当てるということは、物質的には光子(こうし。「みつこ」じゃないよ。)をぶつけること。でも、相手も量子(レベルの大きさ)なので、ぶつかられると場合によってはその「衝突」のエネルギーで飛んでいってしまったり、反応して分裂だの融合を起こしてしまったりすることもあるわけです。これは強い光を当てるほど大変なことになります。でもそれを防ごうと少しの光だけにすると、「暗い」のでよくわからない。このジレンマによって、観測の精度に限界が発生するわけです。これがハイゼンベルグの不確定性原理の乱暴な説明です。
 …と、こむずかしい話もできるけど、日常生活的には、授業参観とか社長の工場視察なんかを想定すればいいでしょう。「見に行くぞ」なんていうから、掃除もするし、その日だけ、みんなてきぱきしたりする。

 まあ、上の例は「観測」(を宣言)することで観測対象が変化する場合だけれども、事実は変わらないのに、観測する側の意識が変わったために事実が変わったように見える例というのは、みなさんが体験されているはずです。
 たぶん、メルマガSUNを購読し始めてから、国連関係のニュースが突然増えたような気がしていませんか? 事実はそんなことないんです。 いつも少ないです。ただ、みなさんが「国連」という文字や音に敏感になって、ニュースがあると、ピピッと反応してしまうようになったからです。

【どうでもいい補足】
量子力学の世界では量子さん、光子さんのほかに、陽子さんもいます。(「ようし」だってば。)

【さらにどうでもいい補足】
ノーベル物理学賞学者の朝永振一郎氏が、量子力学を平易に説明するために、光子(こうし)の振る舞いを、裁判仕立てで説明する、『光子の裁判』(「みつこのさいばん」です。)という本があります。量子力学入門にはいいかも。

2000/09/09
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政治家の資質 (on 2000/08/30

 M.ウェーバーは『職業としての政治家』の中で、政治家の備えるべき資質として
情熱・責任感・見識の3つを挙げています。特に2つ目の責任感に関しては、政治家
の面目は「自分の行為の責任をもっぱら自分1人で負うところにこそある」としています。

 M.ウェーバーはかなり個人的にチェック入れてる学者の1人です。まあ、大学者を捕まえてこんなこというのも失礼なんですが、問題意識が重なっているんでしょう、私が何かを考えてそれに関連する本をあさっていると、多くの場面で彼の著作に行き当たります。
 彼の最も有名な著作は『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』ですが、彼が生涯をかけてやろうとしたのは、その本で論じたことをヨーロッパ以外で実証可能であることを確認することだったようですね。それ以後の著作(でも未完)の中で東洋思想を必死に(?)勉強してるのがわかります。もうちょっと長生きしてくれたら彼が日本をどう考えていたか、書いてくれてただろうに、ちょっぴり残念です。

2000/09/03
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平和維持活動権限強化の勧告 (on 2000/08/23

ガリ氏の時代には、平和強制部隊など、かなり紛争への積極的介入の色が
濃かったように思うのですが、アナン事務総長の時代になってからは、予防外交
(最近は「予防行動」preventive actionという用語が国連では主流)を
強化しようという流れのように思えます。

 ほんとはねぇ。この日(8/23)の原文を読んでた24日っていうのは、諸葛亮孔明の命日なのね。
 実は歴史上の人物で一番好きなのは孔明なの。ちなみに今つかってるマシン(Windowsの方)は KOMEI くんだし、実はこいつの先代で使ってた Mac にも Komei という名前をつけてたのだ。
 私から直接メールを受け取ったことのある人は、そのメールのヘッダを細かくみてもらうと、
Message-Id: <200008131307.aa00623@>komei.mahoroba.ne.jp>
とか書いてあると思うよ。

 まあ、日本における孔明のイメージというのは、吉川英治の『三国志』による影響が大きいのだけれども、その他関連文献をいくつか読んでも、やはり彼の志の高さって惹かれるのだぁ。でも、彼にも失敗が2つ。後継者作りと、漢王室再興なんていう、当時の民衆の心からかけ離れた理想を追い求めたこと。

 …ってなことを「今日の一言」に書こうかなって思ってたんだけど、当日の文章を見て、ああ、これは解説しなきゃなって思いなおして、孔明フェチな文章はお蔵入り。

 さて、前置きはこれくらいにして。
 やはりね、紛争が起ってから介入すると、介入するほうにもされるほうにも被害が出る。それならそうなる前に(予防的に)なんとかしようというのが、予防外交とか予防行動とか呼ばれるものです。日本で国連への協力として自衛隊の海外派遣が大問題になったりするわけなんですけど、そもそもそういう事態にならせないようにするにはどうすればよいのかっていうふうなアプローチで平和に貢献するって発想で人もカネも使えばいいのにって思ってしまいますです。

2000/08/28
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マタイ効果(on 2000/08/16

お金も人口もアイデアも働き口も人望も食糧も、有るところには有るし、
そこにどんどん集まってくるんだけれども、無いところにはやっぱり無いし集まっても来ない。
最近の流行の言葉で言えば自己組織化とかロックインとか言うのですが、このような一方向の
集中現象を「マタイ効果」とも言います。

 地球が丸いのは、重力が十分に働くほど大きい(ということはそれだけ重い)ということです。月も丸いですから、まあ、地球ほどでないにしても、それなりに十分大きいんです。じゃあ、星は全部丸いかと言うとそうではありません。例えば火星の衛星であるダイモス・フォボスはでこぼこで、単なるでかい岩にしか見えません。こで、どういうことかというと、星には重力平衡形状というのがあって、あるそれぞれの星には、その星の重力に適った、耐えられる重さというのがあるんです。例えば地球上にどこまでも高いビルが建てられるかというと、そんなことはなく、その材料が何であれ、ある限界を超えると自分の重さに耐えきれなくなって崩れてしまうのです。その結果、星は丸くなるんです。
 星と言うのはどんな星でも、出来あがるときには、宇宙に散らばるチリが集まってできます。でも、至るところでチリが集まろうとするので、自分の周囲の(比較的大きな)チリに成長のスピードで負けてしまうと−つまり、発生段階の途中で一定時間内に一定規模に達しないと−、重力平衡形状にならないんです。重力と言うのはマタイ効果の最高の例です。重いものには大きな重力が働いて、なお一層、周囲のものをひきつける。でも軽いものはひきつけられないどころか、場合によってはより重いものにひきつけられてしまいます。

 こういう、引力や重力の譬えで語ることの出来るものは、かなり多いですよ。
 よくマーケティングなどで集客予想をする際に方法にハフモデルというのがあるんですが、これは重力モデルと言われるくらいで、式の形はニュートンの万有引力の公式と同型です。乱暴に言えば、「客の多い店には客が多く集まる」ってことなんです。交通量の予測モデル・産業の集積モデル等々、重力モデルもどきはいっぱいいっぱい有るんです。

 そのこと自体が「よい」か「悪い」かはともかく、とにかく、自然現象の、または社会現象の多くはそういう振るまいをしてしまうんです。そのこと自体をけしからんと言ってもしかたないんですね。そう動いてしまうんだから。もし、その過度の一方的集積がよくないのであれば、その集まる仕組み自体を解消させる必要があります。

2000/08/23
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Think Different (on 2000/08/09

自分が世界を変えられると
本気で信じる人こそが
本当に世界を変えているのだから。
Think different.

この、Think different.の全文はこんな感じです。これは『クレイジーな人たちへ アップル宣言』という本にもなっています。(三五館;ISBN 4-88320-908-3)

2000/08/11
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名前を呼ぶ、ということ (on 2000/08/02

名前を呼べるということは、その人との関係性が築かれたということです。
最近、大量殺人を許す素地は、匿名性にあるのではないかという気がしています。
恐らく、人間を殺す前に、人間を人間と見る心を殺しているんです。

 これと同様のことは、哲学者・レヴィナスが『全体性と無限』の中で触れています。
 要するに、兵士が殺すのは敵(または敵国民)でしかないってことです。殺す相手の名前など知ることなしに殺し合うわけです。
 仮に戦争中に目の前に敵国兵が現れたとして、名前をFelixというとしましょう。敵国兵を殺せとは命令されてはいるけれども、「Felixを殺せ」とは命令されてない。すると、他でもない、目の前のこの Felix を殺さねばならない理由が見つからない。得体の知れない「敵国人」なんかじゃなくって、生身の Felix なんだから。

 怨恨による殺人はこれでは防げない−むしろ逆効果だ−けど、名前を呼ぶ、少なくとも相手には呼ばれるべき名前があるんだと想像することは、殺人を減らすかも知れない。

2000/08/04
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「大崩壊」の時代 (on 2000/07/26

あとがきにもあるのですが、大崩壊へと向かう社会の現状を統計データなどから
淡々と記述している部分がほとんどで、最近の経済学・社会学・生物学の研究の
動きを追跡している人にとっては特段に新しい知見が得られるというわけではありません。
正直なところ、私にとっては目から鱗が落ちるような話がなかったのですごく退屈
だったのですが、ただ一つ、最後の一言にだけはうなづきました。こういう言葉です。

われわれが希望をもちうる唯一の理由は、社会秩序を復元する強靭な能力が
人間に生まれつき備わっているという事実である。歴史がよい方向に進んでい
くかどうかは、この復元作業がうまくいくかどうかにかかっている。

 先週末に書店に行ったら平積みになっていたので買った本。『歴史の終わり』『「信」なくば立たず』も読んだんですが、訳がいまいちなのか、特に感銘や触発を受ける本ではなかったですね。フクヤマ氏の持っている基本的な歴史観(ヘーゲル史観のコジェーブ流解釈)が、どうもしっくり来ないから、なんでしょうけれども。
 じゃあ、なぜ読んだのかというとですね。その内容に関わらず、日米の論壇では話題になるだろうから、予め読んでおいたってわけ。たぶん、ビジネス書の中では売れると思うよ。ほんとに読まれるかどうかは別として。

 純然たるヘーゲル史観に立てば歴史とは世界精神(Welt Geist)の自己実現過程であって、個別の人間の振る舞いについてはその役割のみが重視されてしまいます。脚本家の言う通りに動く俳優みたいなものですね。その考えからは逸脱するとも言える一言なんですよ、上に引用したフクヤマ氏の言葉は。(もちろん、これまでにも完全な「歴史とは世界精神(Welt Geist)の自己実現過程」という理解とは相容れない要素が『歴史の終わり』→『「信」なくば立たず』でも垣間見ることができるわけですが。)
 人間のもつ「かしこさ」−ほとんど生活の知恵とでも言うべきもの−が、社会を安定させていくという性質への信頼を、この言葉に見ることができると思います。

2000/07/28
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「傷をつけた剣のみがその傷を治しうる」(on 2000/07/19
…私はこの言葉のとおりだと思います。
もちろん実際には剣で傷を治るわけないのですから、この言葉はかなり
象徴的です。「傷」をつけた、その(原因となった)「剣」が何 であったか、
刺さった「剣」をどう抜けばいいのか、抜いたあとどう処置すればいいのか
…それに対する適切な処置により、「傷」が治っていく。
完治しない「傷」は、延々と 「痛み」と「苦しみ」を生みつづけることでしょう。

お手軽な「癒し」など、世界の現実には通用しない。
肺腑をえぐる苦悩との格闘にのみ「傷」を完治させる力があると思います。

 さて、この「一言」を書いた時に直接頭にあったのはこの日の1番目の記事・エリトリアへの人道援助の件です。
 悲惨な状況に置かれている人々に対し、緊急に援助物資を送ることは必要なことです。しかし、このような記事が1度で済んでいないんです。仮に以前に援助された人が安全な状況になったのだとしても、数ヶ月後には新たな援助が必要となっている。これはエリトリアに限ったことではなくて、だいたい、今、国連が何らかのミッションを派遣している地域に関して何か月かに一度このようなアピールがなされています。
 結局、根本的なところで、解決がなかなか進んでいないということなのですね。

 このような問題だけじゃなく、日常目にすることがらに対し、どうしても対症療法的な反応をしてしまいがちです。そのために逆に(意図に反して)その状況を温存してしまうという危険性がはらんでいます。どこかで、その連鎖を断ちきらない限り、何度でも苦しみは回帰してきます。
 それは大規模な難民発生という問題でもそうでしょうし、個人の抱える心の傷みでもそうでしょう。
 確か、ドリカムの歌の歌詞で“Time is medicine.”というのがありましたが、(あれ? なかったかな?)、それは単に問題を風化させてるだけで、解決にはならないと、個人的には思います。

2000/07/25
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Updated : 2005/08/22